カテゴリー「創作へのメス」の11件の記事

「青い鳥」の仲間たちが作った「虹色ねすぱ」に連載したエッセイ集

わかることと感じること

創作へのメス11

 

   わかることと感じること

 

 

文学だけでなく芸術作品も含めて、作品を味わい評する際に「わからない」という言葉を聞く機会がけっこうある。単純な感想のようだが、そこには創作活動に関わる深い問題が隠れている。文学や芸術は「理解しなければならないのか」という点である。

 

創作者の側と受け手の側に「伝達」がなければ、もちろん、「作品」は成立しないのだが、論文やレポートはともかく文学や芸術作品においては必ずしも「理解」が伝達の全てではない。「言葉では言い表せないけれど、何かしらひどく心を動かされた」というような実感が得られれば、理性的な面は別にして少なくとも感性的な面では十分に「伝達」が成立するからである。けれども、どうも一般的な意識は理性/理解に重点が置かれ、感性的な面の伝達の重要性を無視したり軽視したりする傾向があるように思われる。

 

とくに「わからない」という言葉の裏を分析してみると「理解できないからこれでオシマイ、評価終了」というほとんど無意識的な心情から出ている場合が少なくない。「わからない」から「もっと深く向き合ってみよう」という判断とは異なるこの種の短絡的な結論は、「忙しい現代人」の現状からは十分に理解できる。深く向き合うためには、時間も集中力も心のゆとりも必要だが、日常に追い回されていると、よほど本人が強く意識していない限りそれらは失われてしまう。「わからない」で終わってしまえば、それ以上深入りしないことで波風は立ちにくいし、下手な「理解」を表出してしまって攻撃を受け自尊心を傷付けられることもない。つまりそれが一番楽なのである。

 

けれど、それによって失われていくものも多い。早く結論を出すことはできても、深く作品に向き合うことはないので、ものごとへの新しい視点や考え方は取り入れられず、いつまでも狭い自分の中で安心し、感性ばかりでなく理性までも鈍化させてしまうからである。そのことからくるマイナスは、色々と考えられるが、たとえば「創作する側」から考えただけでも、あえて列挙する必要すらないだろう。

 

確かに個人の持つ様々な個性との相性の点からも、理解しにくい作品というのは存在する。しかし、「わからない」で終わるのではなく、「わからない」から出発して向き合えば、結構いろいろなことが「感じられる」場合が多い。そしてそれが「理解」の第1歩となり、作品やものごとをより深く見つめるきっかけにもなる。それは「創作活動」を支え、深めていく感性の土壌を豊かにすることにもつながっているのである。

 

〔完〕

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作品主義を超えて

創作へのメス10

   作品主義を超えて

 

 

何のために文芸創作に関わり続けているのか…という問いに答えようとするとき、自分自身の中に創作活動の持つ意味がより鮮明に浮かび上がって来る。文芸創作に拘る以上、作家として社会的・経済的に自立できるようになりたいという欲望の存在は、もちろん否定できないし、するつもりもない。けれども、それ以上に心をとらえて離さないのは、文学の持つ「癒し」と「人間修行」としての側面である。

 

以前、「石の詩」の合評会で、「相変わらず作品が解りにくい」という評を複数のメンバーから頂いた。文学作品の創作を続ける以上「伝達」の問題は無視してはならない大切な条件だが、その一方で「伝達」を意識し過ぎては自分自身の表現として納得できるものから遠ざかってしまうという問題点もある。

 

十数年前の事だが、「石の詩」のメンバーには「解らない」と酷評された同じ作品を、精神的に不安定な状態にあったとある女性が「すごくきれい」と絶賛した事があった。客観的にその事実を検討すれば、その詩の「文学作品」としての価値を疑問視する事になるだろうが、主観的には、精神的にギリギリの状態まで降りて創作した「作品」であったので大いに満足できる双方の「評」だった。

 

今でこそ宮澤賢治の作品は人々に絶賛されるが、彼が生きていた当時の評価は、ほんの一部の人々を除いて悲惨なものであった。それ自体、彼の作品の中に融合された精神世界の高さと科学の絶妙なバランスの上に構築されたイメージに人々の認識と想像力が追い付けなかった結果であるが、もし賢治が、自らの内から沸き上がる創作への思いを押さえて「伝達」を意識したならば、時代を越えて愛される作品は生まれなかっただろう。

 

精神的に深いレベルで創作活動に関わって行くと、時として「作品」としての「結果」を度外視して書かなければならない時がある。当然、「結果」としての客観的評価は散々なものである事が多い訳だが、創作過程そのものが、自分自身の世界認識や生き方に大きな影響や意味を与える事が多い。そしてまた、それ自体が自分だけでなく、ごく少数の人にとって「癒し」として大きな意味を持つ場合もあるのだろう。

 

「伝達」…つまり作品を読む人にどう伝えるかは「文学」そのものにとって大切な条件である。しかし、顔も知らない第三者に振り回されて、「創作者」としての自分自身を見失ってしまっては何にもならない。「作品」の結果に心を奪われるのではなく、「作品」を日常的に創作し続ける事の持つ「意味」を、積極的・肯定的に問い直していく事が必要だろう。

〔完〕

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表現という癒し

創作へのメス9

 

   表現という癒し

 

 

オウム真理教関連の報道の「お祭り騒ぎ」を横目で見ながら、自分の心に表現活動の意味を問い直して見た時期があった。当時の一連の報道に対しては、あまり熱心な視聴者では無かったので、それに対する印象が正鵠を射ているかどうか定かではないが、全般的には教団およびその活動を「異常」という枠の中に押し込めて「安心」を得ようという、底の浅い分析で終わっているように思われる。

 

確かに、そうしておけば一応の安心は得られるだろう。けれども、問題の本質は、それによって闇の彼方へと消え去ってしまう。教団の、一見すると「異常」に見える行動や反応の裏には、現代社会の日常の底流を流れるドロドロとしたものが存在する。それを、この機会にきちんと意識し、見つめ直さない限り、私たちの「日常」は、たやすく崩壊してしまう危険を孕んでいるのである。

 

70年代から日本全国を席巻した物質的、経済的な「豊かさ」は、今では、空気のように自然に、私たちの生活を包み込んでいる。けれども、その「豊かさ」を得るための活動と時間が、私たちの精神の「豊かさ」を確実に奪っている。その結果、私たちは誰もが、心に不安やストレスの爆弾を抱え込んでしまったのである。

 

けれども、幸いな事に私には「文学」があり、表現活動があった。心の中に沈殿した闇を、言葉に表現する過程の中で、見つめ、意識し直す機会を、偶然、手に入れる事が出来たのだ。出来上がった「作品」が良いもの/質の高いものかという評価を度外視して、創作の過程が私に「心の闇」を見つめ、それと対峙する苦労と結果としての充足感を与えてくれた。そしていつの頃からか、私はそれが「癒し」に通じている事を実感していた。

 

文学に関わり、創作活動に携わる以上、自分の生み出した「作品」が、質が高く、世間からの肯定的な評価が得られるというのは、もちろん理想の姿である。けれども、創作活動の本質がそこにあるとは私には思えない。技術の革新が、多様なメディアを生み出し、様々な表現手段と機会を提供している現在に於いて、敢えて私が「文学」に拘る意味はどこにあるのか。今、私は、それが「癒し」にあると考えている。

 

単に、「作品」としての文学ではなく、創作過程そのものに光を当て、心理学や社会学的な側面にも学びながら、これからも「文学」と「癒し」についての思索を深めて行きたいものである。

〔完〕

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句読点と文章

創作へのメス8

 

   句読点と文章

 

 

「石の詩」という雑誌の同人になって15年以上が過ぎた。三重県を中心にした、年に3回発行する詩の同人雑誌なので、その締切りに合わせて詩を書き続けている訳だが、最近になってようやく、少し詩というものが分かってきたように感じている。

 

けれども、分かってきたからと言って、それで直ぐに素晴らしい作品を生み出せるかというと、そうではない。勉強やスポーツなどでも同じだが、分かったからといって、それが即座に出来る事には繋がらないのである。

 

特に最近、詩を書いていて思い知らされるのは、句読点の難しさである。

 

一般に、詩という文芸は、小説や童話、随筆などと比べると、改行によって言葉の区切りを付けやすい。だが、それゆえにまた、言葉を区切る際に大きな役割を果たす句読点を使いにくいのである。

 

けれども、その事は、詩に句読点を使わない事とイコールではない。うまく使いこなせれば、詩の中の句読点は、表現の区切りやイメージの切断を強調したり、言葉をいっそう意識化したりするのに大きな役割を果たすのである。

 

ところで、句読点と言えば、童話や児童文学を書く場合にも、注意を要するものである。対象とする年齢によって多少は差があるにしても、童話や児童文学では、漢字の使用には、どうしても制約がつきまとう。小説や随筆では何も考えずに使える漢字が、童話では使えなくなる場合が出てくるのである。

 

そこでいきおい、平仮名や片仮名が増えてくるのだが、例えば平仮名ばかりで書かれた文章は、非常に読みにくくなる。「ここではきものをぬいでください」という文を読んでも、靴を脱ぐのか服を脱ぐのか判断できないのである。

 

その結果、句読点の出現頻度が高まることになるのだが、それが多すぎる文もまた、読んでいて見苦しい。そこで文章を短く切る……という具合に、句読点によって文体までも変化せざるを得なくなってしまうのである。

 

同じ人間が書いていても、書くジャンルや内容によって作品の文体が異なってくるのは、ある意味では当然の事だと言える。そして句読点は、その文体の変化の条件の1つとなる大切なものなのである。

 

句読点の大切さと難しさを、せっかく詩や童話を書くことを通して学んだのだから、これからの創作活動を進めていく中で、少しでも、それを使いこなせる能力を高めていきたいものだと思っている。

 〔完〕

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読みとふりがな

創作へのメス7

 

   読みとふりがな

 

 

真面目に詩や童話を書いていると、ルビの振り方に頭を悩ますことがある。もちろん、詩と童話ではルビの持つ意味は異なってくるのだが、いずれにしろ、創作活動の結果として苦労する事に変わりはない。たかがふりがな、されどふりがな…なのである。

 

言葉とイメージの相関は文学にとって不可欠のものである。ところがその「言葉」は、実は書き言葉と話し言葉とに分かれ、それぞれが微妙に異なるニュアンスを持っていることについて意識している場合はあまり多くない。けれども、文学や創作を語り、分析していくにあたっては、そのことが決定的な意味を持つ場合がある。

 

話し言葉においては会話の流れやその時の表情、雰囲気などで多少の言い回しの間違いは双方共に意識されないままに素直に流れて行く事は少なくないが、それを書き言葉に直してみると意味不明となる場合が多い。パソコンのワープロ・ソフトによる漢字変換ミスなども、そうした事と繋がる「言葉」の混乱の例である。

 

その点を頭に置いた上で創作というものを細かく検討してみると、言葉を音声化するか否かによって書かれたものへのルビの意味付けは異なったものになる。童話においては難しい漢字を読みやすくするための「ふりがな」が、詩や小説、随筆などでは、時として音や意味を固定したり、ずらしたりするルビへと変化する。もちろんこれは、漢字という表意文字を使い、かつ英語などの外国語を非常にアバウトな形で取り込む日本語だからこそ出てくる現象なのだか……。

 

詩の場合、朗読・音読という形で味わう場合も多いので、例えば、「水面(すいめん)」と「水面(みなも)」とでは印象が全く違ってきたりもする。したがって、作者が音の響きに拘りを持つのであれば、ルビを振って読み方を固定してしまうのも当然あり得るのである。しかし、目で読む場合には、そのルビが紙面全体のイメージを壊してしまったりするときもある。

 

童話や児童文学の場合、ふりがなの使用によって、多少は漢字の使用の制限を緩和できるという利点がある。確かにそのような形で漢字が増えると大人には読みやすくなるが、紙面全体の印象は、ひらがなが多い場合と比較して黒くなってしまう。小さなことかも知れないが、そうした印象の違いは、子どもの目にとっては意外に大きかったりもするのである。

 

ふりがなの問題など、創作過程にあっては小さな枝葉に属することがらである。それに気を取られ過ぎてイメージや創作のパワーが萎んでしまうのは本末転倒というものだが、自分の可能な範囲で、小さなことにも注意して創作したいものである。

 〔完〕

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表記とイメージ

創作へのメス6

 

   表記とイメージ

 

愛しているわと あたしが言えば    

愛しているよと あなたも答える

不思議なものね あたしとあなた    

ひとつの言葉が こんなにちがう

 

 

これは谷山浩子の「あやつり人形」という歌の一節である。ここに書いた部分だけでは分かりにくいだろうが、歌全体を味わえば、同じ言葉の内容的な響きの違いが恐ろしいくらいに胸に伝わってくる。

 

もちろんこれは、単なる歌の上での話である。けれども、日常生活における様々な情景を振り返ってみると、文字で書けば全く同じフレーズなのに、その時々によって実に様々な意味あいで使われているという場合は決して少なくない。

 

例えば、「あいしてる」という言葉が、実は単に「オミヤゲ、サンキュー」程度の意味で使われる場合だってあるし、「ほんっとにうっとおしいやつだな、言葉だけ聞いて満足か?」的に投げ捨てられる場合だってある。

 

けれども、それを背景や一人ひとりの心情を無視して切り取り、文に書いてみると同じ「あいしてる」なのである。

 

この事実は、創作をするに際して注意しなければならないいくつかの問題を含んでいる。

 

1つは、同じ言葉を使って表現しても、その前後の書き込み方によって、その意味や内容は様々な広がり(もしくは狭まり)を持ってくるという事である。

 

けれども、それとは逆の面もある。「あいしてる」「アイシテル」「愛してる」「ア・イ・シ・テ・ル」など、声に出して読めば同じ「aishiteru」であっても、平仮名・片仮名・漢字やその他のマークの使い方によって全く異なるイメージを固定してしまうという事である。

 

もし、創作の際のキャラクターが吉永小百合のイメージならば「愛してる」を使いたいし、アイドルの秋山莉奈などであれば「ア・イ・シ・テ・ル」なんて事にもなる。

 

創作にあたってどうしたキャラクターを使っていくかも含めて作者の個性ではあるが、そのイメージと合わせた言葉や文字の選び方も含めて慎重でありたいと思う。

 

 〔完〕

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作品と書き直し

創作へのメス5

 

   作品と書き直し

 

 

10年ほど前の8月の終わりに、旧作の8度目の書き直しをした。新作でチャレンジする筈だった公募に第一稿が間に合わなかったために、旧作の焼き直しで、チャレンジしたという既成事実だけは確保しようというセコイ考えからイタシてしまった事である。

 

取り敢えず、公募に出すという事を目標にする際にはよくあるパターンだが、推敲程度か、大幅な加筆訂正かは別にして、作品に何度となく手を加える事は多い。

 

私の場合、小説などは特に、まず第1稿をルーズ・リーフに鉛筆で書き、その後で必ずワープロで原稿化するという手順で書いているので、どんな作品でも、他の人の目に触れるまでに、最低2度の書き直しをしているということになる。

 

その度ごとに、言葉の一つひとつに真剣に悩む訳だから、面倒この上ないし、また、精神的にもかなりのエネルギーが必要である。けれども、それをやる事への不満はない。書き直しの過程そのものが、自分自身の創作活動の大切な部分の1つと実感しているからである。

 

それとの関わりで、自分のもの・他人のものを問わず、1つの作品を「完成品」としてではなく創作過程の1つの過程として見てしまう(読んでしまう)ことが多い。長年学んできた教育学や心理学の悪影響(?)の1つなのだが、評論の場合はともかく、創作の場合について言えば、「完成品」としての覚悟がないまま書くわけだから、読んでもらう人に対しては不謹慎であると言えるかも知れない。

 

けれども、井伏鱒二の『山椒魚』の例をあげるまでもなく、ある意味では1つの作品を「完成」させることは非常に難しい。少し時間をおけば、前に書いた時点で「完成」とみていたものも、感性的・技巧的に不十分に感じることは多いからである。

 

そんな思いが、作品を書き直す行為へと自分を駆り立てる。友人や仲間たちの感想や批評も、ある程度時間を置けば、自分なりに消化し、作品の中に可能な限り生かしていくこともできる。文学をやっていて良かったと思える一瞬である。

 

幸か不幸かプロではない立場にあっては、作品は自分1人のものである。それに何度となく手を加えることは創作の修行でもあり、また楽しみ(苦しみとも言うが…)でもある。秋の夜長に時間が確保できれば、パソコンを開いて、また古い作品をいじってみたいと思っている。

 

〔完〕

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読むことの意味

創作へのメス4

 

   読むことの意味

 

 

創作活動までのめりこんでしまっている者も含めて、文学との親近感を深く感じている者にとって、読むという活動は非常に身近なものである。けれども、身近すぎるために、逆に、読むことそのものに対しては、普通、そう注意が払われてはいないように思われる。

 

しかし、創作する立場からすれば、読むことそのものを意識的に分析し、様々な角度から作品を見てみる中で学べること、創作に生かせることはけっこう多い。

 

『愛人』の作者デュラスは、その作品『破壊しに、と彼女は言う』について「10通りの読み方がある。それが私の意図したところである」と述べている。

 

デュラスの言葉の意図とはずれるかも知れないが、意識せずに同じ作品を読んでも、自分の年齢やその時の気分、感情などによって読み方がまったく違ってくる。そんな経験は、誰しも持ちあわせているのではないだろうか。

 

1人の人間でさえそうなのだから、10人いれば15通りや20通りの読み方は出て来て当然ということになる。そのように考えを進めて行くと、読むということの意味は、一気に深い霧の彼方に埋もれてしまう。ところが、「現実」には、学校などで「正しい読み」が指導される。例えば、作者の言いたいこと、作品の主題といったたぐいのものである。

 

けれども、読みに正解などあるのだろうか。

 

作品の感性と読み手の感性が近い時には、「作者の意図」なり「主題」なりは、かなり近いイメージで伝わってくるかも知れない。しかし、作品によっては、読者のちからによって作者の意図を遥かに超える「読み」を紡ぎ出すこともある。評論の名作などは、その延長線上に生まれるといっても差支えないだろう。

 

結局、読むということは、最終的には、まったく個人的なものにすぎない。

 

私自身は、最近では、一読一読がいわば読み手の知識と経験と感性のハーモニーによって作られるかけがえのない「作品」と言えるのではないかとさえ思っている。そこまで考えた時、作品に対する他人の読みに囚われ過ぎるのは創作の際にはマイナスになる場合もあるように思う。

 

「読む」ことを一層大切にするとともに、実体のつかめない「他人の読み」に縛られない自由な心で創作したいものである。

 

 〔完〕

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表現と伝達との距離

創作へのメス3

 

   表現と伝達との距離

 

 

創作活動を続けて行く上で、最近とても気になっている事がある。表現することの目的がそれである。

 

例えば、様々な文章講座で、他人への伝達を意識させるような一文に出会う事がある。「読む人に分かる文章を書きましょう」といった類いのものである。私自身も、「青い鳥」誌13号に発表した「『読者』の視点」の中で、「自分の中に仮の読者を設定して書く」などという事を書いている。読み取ってもらえたかどうかは別にして、これなどはまさしく、独善を廃して、伝達を意識した「客観的表現」に心掛けたいという事である。

 

ところが、「表現」というものをより深く分析していくと、それだけでは済まされない(というより済ましてはいけない)問題が浮上して来る。創作活動というものは、必ずしも「伝達」(特に「現在」の)を意識するだけでは成り立たないのである。

 

私は、宮澤賢治にほとんど愛憎に近い感情を抱いているが、今でこそたくさんの人々に愛読されている彼の作品も、賢治が生きていた時代には、多くの人に顧みられることなく打ち捨てられていた。それでも賢治は創作活動を止めなかった。そして、それだけではなく、賢治の生きた時代の伝達(あるいは、世の理解と言った方が良いだろうか)に媚びる事なく、自らの表現を貫き通したのである。

 

現在、私たちは賢治の意志で出版した以外の数多くの作品や草稿を手にする事ができる。それを読むことで、私たちは多くのイメージや賢治からのメッセージを受け取っている。もし賢治が書き続けていなければ、そんな事は不可能だったのである。

 

マーラーは、「きっと自分の時代が来る」という事を言ったと誰かに聞いたことがある賢治もマーラーと同じ様に未来を見つめながら書き続けていたのだろうか。否。彼は、書き続けるしかなかったのであろう。

 

心の中に沸き上がる無限のイメージと意識の分裂。それを見詰めてしまえば、現実生活との距離に悩み苦しむ事になる。それを放置すれば、拡大したイメージと意識の分裂に精神そのものが耐えられなくなってしまう。では、放置しないとすれば…。残された道は表現だけ。表現することによってギリギリの境界線で拡大するイメージと現実を生きる意識のバランスを保つのである。

 

受け取る人に分かる表現。文学や芸術の創造において「伝達」を意識すること。それはまさしく「正論」である。けれども、意識をより広く、より深く拡大していく過程で、創作者には、そこに止まれない瞬間が確かに存在するのである。

 

 〔完〕

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イメージと表現の間

創作へのメス2

   イメージと表現の間

 

 

小さい頃から、いろいろな物語を頭の中に思い描きながら歩くのが好きだった。年齢を重ねるごとに、そうした傾向は高じて、25歳頃から結婚する前頃まではヒマを見つけては小説や詩や物語のようなものを毎日一生懸命書いていた。さすがに最近はそこまでの時間はなかなか取れないが、時間にゆとりがある時には、毎日のように詩を書いたり、その他の文章を書いたりすることもある。

 

書き始めた最初の頃は、ただ書くことが楽しかった。文章が積もり積もって1つの物語が完成することが楽しかった。そしてまた、それだけで十分だった。

 

けれども、そんな年月を重ねるうちに、そうした自分の文章や行為そのものをクールに見詰めるもう1人の自分が生まれてきた。このもう1人の自分という奴はなかなか厄介で、こいつの「目」にかかると、自分の能力に、表現力の無さに絶望しかけることも少なくない。しかし、その一方で、推敲などを少しは「客観的」にしてくれるので、まあ、一長一短というところだろうか。

 

ところで、このもう1人の自分が最も厳しくチェックをしてくれるのが、イメージと表現の間の落差である。休みの日の朝の布団の中で、午前零時を過ぎた頃にぬるめの風呂につかって、ぼんやりと歩いている最中に、不意にそのままビデオに撮っておきたいような素晴らしいシーンのイメージが頭に浮かぶ。しかし鉛筆を持ってルーズ・リーフに向かい、それを文章にした途端、あの鮮やかな色彩や透明な輝きが、あっという間に陳腐な言葉の羅列に変身してしまう。

 

このあまりと言えばあまりの「落差」を少しでも埋めようと、言葉のデッサンを繰り返す。例えば詩、例えば短歌、例えばエッセイ、例えばシナリオ……。それぞれを「本気」でやっている人には、それこそ石でも投げられ兼ねないが、こちらとしては大まじめである。お陰で、会話表現、情景描写、心情の変化など学ぶことも多く、本や様々な文章などを読みとる場合には大きな力を発揮してくれるのだが、自分の文章には、学んだ筈のことを半分も発揮できない。困ったものである。

 

ある時期からはすっかり開き直って、十の表現力を発揮するためには百のちからを身に付けるしかないと、毎日、可能な限り本を読み、時間が許せば、詩や文章を書いている。

 

20年以上こんなことを続けていても、まだまだ、頭の中のイメージを表現しつくすところまではいっていないが、この頃、少しだけ別の面も出てきた。書いているうちに、イメージがさらに広がり、深まり、より鮮明になってくることがあるのである。その広がりが、ほんのりとした喜びを自分に与えてくれる。カワイイあの娘や父ちゃん、母ちゃんを振り捨てても書いていて良かったと思う一瞬である。(一瞬だけだが…)

 

しかし、イメージが広がるということは、すなわち、それに比例して自分の表現力との間の距離も広がるということである。これはもしかすると、「文学」という名の蟻地獄の中へ全力疾走で転がり落ちているのかもしれない。それなのに、自分では心からそれを楽しんでいる。本当に困ったものである。                                                  〔完〕

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