カテゴリー「仮面の情景」の7件の記事

仮面の情景 7

 

   仮面七、「彼」の侵略

 

信号が黄色に変わった。「いける! 」そんな言葉が頭の中にきらめいた。そして、次の瞬間、左足はブレーキを踏んでいた。

 

まただ。その瞬間、心の中で舌打ちをしている自分がいた。分かっている。一瞬のことだったが、また「彼」に身体を乗っ取られたのだ。

 

やがて、信号は青に変わり、身体は、何事も無かったようにギヤを入れ、アクセルを踏み込んだ。「彼」は既に身体とのアクセスを切り、何も無かったように意識の5センチ上に浮かんでいる。僅かの時間の干渉の後、いつものスタンスに戻ったのだ。

 

確かに、少しばかり寝不足で、表面には現れない疲れが、薄く広がる霞のように身体と精神の表面にたちこめている。微妙なバランスを破って、感情が狂気の方へ暴走しようとする寸前。穏やかな「昼の顔」に目に見えない小さなひび割れが生じ始める頃。本当の自分が、妖しい闇の暗さと狂気の混沌を熱望する時。そして、こんな時が一番「彼」の侵略を受けやすいのだ。

 

「彼」の侵略を最初に経験したのは19が終わる寸前の冬だった。失恋。そして自分の能力と社会の現実への絶望。重すぎる「当たり前」の毎日。檻か鎖のように感じられる周囲の視線。心が、どうにもならないほど疲れていた。

 

「逃げ出したい…」と思うのは、こんな時だ。その時は、特にそうだった。ナイフ握ったまま、左の手首に押し当てる。冷たい刃先の感触が、心地好い誘惑となって心に迫っていた。その時、突然、「彼」の声が心に響いた。

 

「待ちな。そんな事はいつでもできる。どうだい、それよりも試しに俺に身体を預けてみないかい。お前さんはただ、心の奥底で眠っていれば良い。それで苦しみや胸の痛みから逃れられるぜ…」

 

その瞬間、心が凍り付いた。

 

「彼」の誘惑に身を任せたいと思う一方で、心の奥底から別の思いが湧き上がってきたのである。確かに、それで楽になるかも知れない。けれど、それは「自分自身」を捨てることではないのか。そう感じた瞬間、誰もいない部屋の中で、大声で叫んでいた。

 

「いやだー」

 

「彼」は、小さな舌打ちの音と共に、いなくなった。

 

だが、それは始まりに過ぎなかった。それから「彼」は幾度となく訪れた。もちろん、誰もそれを知らない。心の中に聞こえてくるだけの声の存在など、家族にだって信じてもらえないに決まっているし、まして他人が聞いたら頭がおかしいと思われるだけだろう。しかし、「彼」は確かに存在するのだ。

 

人との関係に疲れた時、仕事に追われて心にゆとりをなくした時、そして何よりも落ち込んで自信を失った時…。そんな時には誰だって、「遠くへ行ってしまいたい」と思うに違いない。

 

けれど、それは禁句なのだ。小さくつぶやくどころか、心の中にその言葉を思い描くだけで、「彼」の冷たい笑い声が聞こえてくる。

 

「そんな必要などないさ。もっと簡単な方法がある。俺に身体を渡せばそれで良いんだ。そうすればお前は、永遠に悩まなくて済むようになるぜ」

 

ようやく、学校に着いた。また、1日が始まる。生徒達と顔を合わせるのも辛いが、何よりも彼女の隣で仕事を続けなければならないのが苦しい。ヒリヒリとした痛みが、胸を襲う。そして…。

 

「ああ、遠くへ行ってしまいたい」

 

思わず口にしたその言葉が終わった瞬間、すべてが真っ白になった。

 

「昨日は本当にごめんなさい。私、やっぱり変だったの…。でも…」

 

彼女が、済まなさそうに口を開く。

 

「何、気にしていないよ。それよりどう? 今夜。じっくり話したいことがあるんだ」

 

彼女は、一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに嬉しそうに応える。

 

「ええ、もちろん。…でも、先生、何かふっきれたみたいね。じゃあ、待ってる。きっとね、約束よ!」

 

「もちろんだよ」

 

「彼」はそう言って、快活に片目を閉じた。

 

                                    〔完〕

 

 

 

 

 

今となっては、それが実体験だったのか幻覚だったのか判断することすらも出来ない。すべては、あまりにも鮮やかに記憶に刻まれ、それなのに、まるでTVドラマか何かでも見ているように実感がない。あるいは現実なのかもしれない。あるいは幻想に過ぎないのかもしれない。しかし、例え幻想でしかなかったとしても、それを含めたすべてが確かに自分自身なのだ。

 

本当の自分はどこにある。本当の自分はどこにいる。

 

「俺」「私」「僕」「彼」…。硝子窓に写った顔の向こうから、少し引きつった狂気の笑い声が聞こえてくる。幻覚の「仮面」の声が、勝ち誇ったように魂の奥底まで響いてくる。そう、失ってしまった本当の「自分自身」の耳に、はっきりと…。

 

 

 【仮面の情景】

                                   〔完〕

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仮面の情景 6

 

   仮面六、CALL

 

 

「うん、珠里にだったら刺されてもいいな」

 

卓の言葉に、マスターは、笑いながらナイフを差し出した。珠里は、それを受けとると、すっと卓の首筋に銀色に光る刃を近付ける。卓は、ふっと溜め息をつくように微笑み、持っていたグラスをテーブルに置くと、ナイフの刃に、少し首筋を押し当てた。

 

珠里は、びっくりしてナイフを引くと、まじまじと卓の顔を見た。

 

「俺は、たった今、殺されても良いくらい珠里が好きだよ。だけど、まだ、子どもを生んで欲しいと思うほどまではホレていない」

 

「ワカラナイ。ドウイウコト?」

 

珠里は、戸惑って卓に聞き返した。けれども卓は笑っているだけで、何も答えない。珠里は、困ったような顔でマスターを見た。

 

「うーん、僕も分からない。卓は時々、訳の分からない事を言うから」

 

卓は、相変わらず笑みを浮かべながら、静かにグラスのブランデーを飲んでいる。騒いでハメを外すのでもなく、怒ったり泣いたりするのでもなく、ポコポコと話をしたり、カラオケを何曲か歌ったりして、おとなしく飲んでいるいつものパターン。

 

けれども、卓の言葉は怖い。酒の嘘が無いのだ。

 

一晩でボトルを半分空けるほど飲んだ時でも、まったく様子が変わらないばかりでなく、言った事をきちんと覚えている。「ドライブに連れてって欲しい」とせがんでみたら、本当に連れていってくれた。後で聞くと「言ったことには責任を持つタチだから」と言うだけ。2人っきりでいても、絶対に強くセマってきたりしない。

 

「ワタシガ日本人ジャナイカラッテ、カラカッテルノ?」

 

珠里は、少し拗ねたように口を尖らせて卓を見た。

 

「いや、日本の女の子だと、分からなくて良い事まで分かってしまうから辛いんだ。けど、珠里だったら、細かいところまでは分からない。だから安心してこうしていられる」

 

また、訳の分からない事を言う…と、珠里は思った。けれど、卓の好意だけは感じられた。それにどう応えたら良いのか、いつもの事だけど迷ってしまう。今日は、特にそうだ。本名…電話…アパート。置物か子犬みたいに「安全」な人だから、次々に教えてしまったけれど、2人でいても本当に何もしない。だから一層不安になるのだ。

 

ショーコは、細いネクタイを締めたお客と出て行った。今日は「デート」らしい。こんな店の女の子だからってバカにしてるのだろうか? だけど、卓の視線には、そんな雰囲気はない。無色透明の水みたいな優しさ。「女の子」は好きじゃないのかな。そんなんじゃないと信じたいけど…。

 

「ワタシ、卓、殺サナイヨ。警察ニ行クノ、嫌ダモン」

 

そう言って珠里は席を立った。一瞬、卓の視線が追って来たけど、すぐ、消えた。ボックス席のシートから見ると、カウンターごしにマスターと話をしてる。何となく悔しい。おもいっきり酔っ払ったら、抱き締めてくれないだろうか? バカ卓。

 

気が付くと、周りが揺れている。また、飲み過ぎたみたい。カウンターに戻ってみたけど、まっすぐに座ってられない。卓の顔、ちょっと心配そうだ。ザマーミロ。珠里は、そう心の中で呟いて、卓に倒れかかった。頭がガンガンするけど、ちょっと良い気持ち。卓が初めて、力強く抱き締めてくれている。

 

「ネエ、明日、電話シテヨ」

 

そこから、記憶はとぎれた。

 

TRURURURU・TRURURURU・TRURURURU…

 

 遠くで電話が鳴っている。珠里は、ベッドから手を伸ばし、電話を取った。

 

                                    〔完〕

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仮面の情景 5

 

   仮面五、嵐の夜

 

雨戸を叩く風の音が、台風の接近を伝えている。すでに家中の窓は雨戸によって武装を終え、強まり始めた風雨に臨んでいる。

 

そんな嵐の中でも、蛍光灯はいつもと変わらぬ光を発して整理中の書類が広げられた机の上を照らしていた。それを気にしながらテレビのスイッチを入れる。

 

リモコンに反応して入れ換わるテレビのチャンネル。張り付いたような笑顔の氾濫と、狂ったような品の無い笑い声。そんなどうでも良い映像と音がテレビから流れている。求める台風情報は、まだ、どこでもやっていなかった。

 

…大型の台風19号。午後8時頃紀伊半島上陸。各地の被害は…。

 

9時30分。ようやく流れ出したニュースを聞きながら考える。…そういえば、懐中電灯がなかったような。6畳2間の離れ。1メートル向こうの母屋には幾つも用意があった筈だが。一瞬、取りに行こうかとも考えたが、雨戸を叩く風の激しさにそれを諦めた。ズブ濡れになるのも嫌だし…まあ、いいか。

 

久し振りの台風の直撃を伝えるニュースがテレビドラマのように意識の表面を流れ去っていく。もう1つ、大型台風の接近という事態が実感できていないのだ。

 

それでも、台風はゆっくりと、だが着実に近付いていた。風圧に軋む雨戸。そして弓のように曲がるサッシ。柱と壁の隙間から笛を吹くような風の音。小さな隙間から入り込む空気の流れが外の嵐の激しさを伝えている。紀伊半島を北東に進んでいくとすれば、ここはもちろん直撃を受ける。微かに、懐中電灯が無いことに対する不安が走る。

 

時計を見る。1015分。テーブルの側にライター。蝋燭でもあれば火を点けられるのだが、もちろんそれもない。まあ、何とかなるだろう。最悪の場合は寝るだけか…。

 

その思考の中に、万一の事故の事はない。大型台風直撃の生々しい記憶を持たないことが、そんな思考をさせる。各地の台風の被害に関するニュースを伝え始めるブラウン管。意識は何気なくそちらへと向かう。ああ、大変そうだな。…まるで人ごとだ。

 

突然、テレビが消え、一瞬遅れて部屋が真っ暗になる。…停電だ。

 

普通の日ならすぐに回復するのだが、いくら待っても電気は点かない。人工的な光と音の沈黙。どうやら、こいつは本格的な停電らしい。目を開けても閉じても変わらない闇の中で、ようやく、自然の猛威を直接肌が実感し始める。…やはり、懐中電灯くらいは準備するべきだった。そんな思いも頭を掠めるが、今更どうなるわけでもない。

 

闇の中でポツリと胡座をかく。光がないゆえに一層研ぎ澄まされる音への感覚。荒々しい風の腕が小さな家の壁を叩き続ける。そのリズムに合わせて降り注ぐ激しい雨。忘れかけていた自然の大きさ、荒々しさを感じるひととき。…そう、たかがひとときの筈なのだ。しかし、そのひとときは永遠とさえ思うほど長く感じられるのだった。

 

本の僅かの光も見えない暗闇の時間がしんしんと続く。拭き荒れる風と叩き付けられる雨粒の音と振動が闇の中で何倍もの重さで増幅される。ついさっきまではどうしても実感できなかった大自然の猛威に対する恐怖が心の中に蘇る。

 

雨戸を叩く激しい雨と風の音。震える壁。軋む窓。部屋が潰れないだろうか。柱は折れないだろうか。水につかることは無いだろうか。何時終るとも知れない完全な闇は、そんな恐怖を少しずつ心の中に染み込ませていく。けれども、たった1人の部屋では、それを胡麻化す術は無かった。

 

明りは本当に無かったのだろうか。

 

闇と激しい風雨の音からくる圧迫感が水を求める砂漠の旅人のように光を求めさせる。それが記憶のページを大急ぎで繰り、カラー・ボックスの事務用品をごちゃごちゃに放り込んであるパットの中のライター・サイズのライトを思い出させる。乾電池が入っていなかった気もするが、新しい電池も、そのパットに在ったかもしれない。探してみる価値はある。だが、それにも明りが必要なのだ。

 

そういえば、テーブルの隅に使い捨てのライターがあった筈だ。つけっぱなしという訳にはいかないが、ライトを探す明りぐらいにはなる。

 

暗闇の中、手の感触だけでライターを探る。本や印刷物や筆記用具が乱雑に置かれたテーブル。こんなことならば、きちんと整頓しておけば良かったという後悔がシャボン玉のように弾ける。いつもの事だ。どうせ、1週間もすれば忘れてしまう。そんな繰り返しが玩具箱をひっくり返したような乱雑さを日常化している。

 

けれども、指先は意外にその混乱そのものを記憶している。ライターも、結局は5分もせぬうちに人差し指が探り当てていた。

 

すぐにライターを点ける。ライターでは、点けっぱなしは利かない。金属の所が熱を持ってくると持ち続けられなくなるのだ。余り長い時間は持てない。火の点いた一瞬に混雑した部屋の状況を頭の中に刷り込まなければならない。緊張の一瞬。

 

瞬間、小さな光が部屋全体を照らし出す。前にテーブル。その周りに散らかった本とファイル。目指すカラー・ボックスはその奥だ。僅かな時間の情景を頭の中で再生しながら部屋を動く。

 

そして、カラー・ボックスの前で再び点火。左手でライターを持ちながら、パットの中を引っ掻き回す。ミニ・ライトはすぐに見付かったが、乾電池はなかなか見付け出せなかった。10秒…20秒。ライターを持つ親指が熱い。結局、諦めてライターの火を消す。部屋は再び闇に包まれた。

 

けれども、そんな一時の光も、心に落ち着きを取り戻すには十分だった。

 

そういえば…。

 

ふと、心の中に彼女の顔が浮かんだ。1人暮らしのアパート。そして、ここ何年も無かった台風の直撃。彼女は大丈夫だろうか。停電などしたら1人で心細い思いをするのでは無いだろうか。

 

思わず、電話機があるはずの空間に首を振る。けれども、手元にある明りはライターの火だけ。電話機は見えないし、電話番号も覚えていない。

 

それに、それを書いたメモもすべてどこに何があるか分からないほど乱れた部屋の闇の中である。とてもじゃないが、ライターの火だけでは如何ともし難い。

 

諦めて溜め息。けれど、何か出来はしないだろうか。光ひとつ無い闇の中。研ぎ澄まされた感覚と感性。そうだ、せめて彼女のために祈ってやろう。ごく自然に、そんな思いが心の中に広がっていった。

 

姿勢を正して背筋を延ばし、静かに腹式呼吸をしながら、両手を重ねる。

 

…彼女が安全でありますように。彼女が怖がらずにすみますように…

 

心の中で、その言葉だけを繰り返す。何度も何度も。只ひたすらに…。

 

不思議なことに、意識の中から、自然の猛威に対する恐怖感は潮が引くように消えていった。激しい風雨の音、柱や戸の軋み、畳に伝わる振動。すべてが激しさを増していく中で、心の中だけが静まり返っていった。恐怖も、欲望も、自分も、何もかもが繰り返される祈りの言葉の中に吸い込まれ、消えていった。

 

長い長い夜。何故か彼女の無事が実感できるのだった。

 

そして朝。

 

台風一過。青空と爽やかな太陽の光が祈りの夜の終りを告げた。

 

「昨日、どうだった?」

 

「それがね、不思議なことにうちのアパートの線は切れなかったらしくって、ずっと停電しなかったの。直撃だったから、あちこちから心配して電話もかかってきたけど…」

 

その言葉を聞いた瞬間、運命を感じた。

 

「話があるんだ…」

 

「?」

 

「結婚しよう」

 

台風の名残の風が、窓の外を吹き抜けていた。

 

                                    〔完〕

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仮面の情景 4

 

   仮面四、未完成

 

学生会館のロビーは、いつもの雑踏に満ちていた。彼は、壁の隅の椅子に腰を下ろして、俯いていた。青白い頬、充血した目、少し乱れた髪の毛。その姿には若い世代の生き生きとした輝きは無く、虚ろな瞳が、ぼんやりと足元の床を見ていた。

 

何を待っているのだろう。ゼミの悪友仲間を…。彼の答はそれだけだ。今の彼にはそれ意外の答は見出だし得なかった。

 

確かに彼等と約束はしていた。しかし、そんなことは、もはや、彼には何の意味も持ってはいなかった。一生懸命学んだ知識が彼を追い詰めていく。歯車のような社会。夢と希望は遠くに逃げ去り、矛盾と絶望だけが現実を支配している。「知識」が彼にそう教えるのだ。それなのに彼には、何の力も展望もない。そして、彼自身も歪んで窒息した現実の中で、歪められ、去勢されている。「知識」が彼にそう教えた。それが彼の希望を次々と蝕み、絶望の闇へと狩り立てていくのだった。知り過ぎることは、不幸を招く。しかも、後戻りは出来ないのだ。彼はそんなことを考えながら、只ぼんやりと時を待っていた。

 

彼女は、いつものように時間を潰そうと、読みかけの本を手にして、学生会館のロビーに入ってきた。そして、そっと壁の隅の椅子に腰を下ろして、持ってきた文庫本を読み始めた。不意に顔を上げ、自分に目を向けた存在に気付かないままに…。

 

突然ロビーに現われた少女に、彼は思わず目をやった。長い髪。抱き締めれば折れてしまいそうな細い肩。穏やかな水面のような静けさと穏やかさ。そして、秋の夜空のように澄んだ瞳。一瞬、絶望と虚無の闇が消え去り、ひとかけらの生気が蘇る。「恋」を前にして、「絶望と虚無」は舌打ちをしながら、そっと心の奥に姿を隠す。彼女こそ、彼が熱い思いを抱いていたその人だったのである。

 

彼女の出現は、一瞬、彼に全てを忘れさせてしまった。約束も、周囲の雑踏も、そして、救われないほど深い絶望も、あらゆるものが彼の意識から消え去った。彼女が側にいる、すぐ近くで息をしている。只それだけで胸が締め付けられるような痛みと何ともいえないような幸福感が彼を襲うのだった。

 

しかしこれから約束が…。いつもなら、それで止まってしまっただろう。けれども今日は違っていた。そんな自制心はもはや彼の行動を制止する力を失っていた。余りにも深い苦悩の前に、全ては、存在感を失って押し潰されようとしていた。それ程までに彼は追い詰められていたのであった。

 

彼は、何かを振り切るように首を振り、学生会館の入口の方に顔を向けた。

 

約束をした奴の姿は未だ見えなかった。もう、約束の時間は過ぎているというのに…。その現実が、更に彼を追い詰めた。ロビーのざわめきが彼の頭の中でぐるぐると回り始めた。そして、彼の心の中で何かが弾けた。

 

彼は、いつの間にか彼女の前に立っていた。

 

もはや、いつもの小心で気の弱い自分は、心の隅に押しやられた。セルフコントロールが崩れ、体が、口が、勝手に動き出した。そして、口も聞いたことのなかった彼女に、自分自身ですら思いも寄らなかった言葉を口にしていた。それは、彼自身、それ以前にも、それ以後にも、考えられないような行動であった。

 

「少し、お話をしても宜しいでしょうか」

 

彼女は顔を上げ、それまで読んでいた本を閉じて膝の上におき、彼の顔を見た。

 

「あなたが好きです。今の僕にとって、現実の全てが信じられず、かつまた、僕自身すらも、どれが自分の本当の思いなのか自分自身で分からないほど頭がおかしくなって何も信じられなくなった中で、あなたが今目の前にいるということだけが、僕に信じられる全てなのです」

 

彼女の顔に驚きと戸惑いの光が走った。しかし、彼は、そんなことすらも気付かなかった。彼女は、戸惑いながらも、じっと彼を見詰めた。少なくとも、彼の真剣さだけは分かる。そんな彼の表情だった。とはいっても、こんな経験は初めてだった。それゆえに彼女も突然の出来事に戸惑い、どうしたら良いのかを決め兼ねていた。

 

そんな彼女の様子に気付くこと無く、彼は、ひたすら話し続けた。話すことしか彼には考えられなかった。いや、何も考えられぬまま話し続けただけだったのかも知れない。彼は何かに取り憑かれたように話し続けた後、こう言った。

 

「別にあなたにどうしてくれと言うのではなく、僕の気持ちを伝えたかっただけなのです。聞いてくれてありがとう」

 

彼は、そう言って、呆然としている彼女を残したままロビーを出ていった。

 

1週間が過ぎた。彼にとっても、彼女にとっても、長い長い1週間だった。

 

彼女は、いつもと同じ毎日を繰り返していたが、心は不安定に揺れていた。あの日から彼の姿はキャンパスから消えた。時々彼を見掛けていたはずの講義、そしてお昼休みの学食、そして生協の購買部。彼女は、そっと彼の姿を探した。何かしら落ち着かない不安定な日々。彼女は、近付いてくる彼の姿を待ちながら、彼に会うのを恐れていた。

 

長い長い1週間。彼は、ひたすら部屋の中に籠って悩み続けていた。それだけの時間をたった1人悩んだ末に、彼の心に宿ったのは恐怖だった。

 

「僕は一体何をしたのだろう。僕のしようとしたことは、彼女と言う逃げ場を作って現実から逃避しようとしただけなのではないだろうか。愛ではなく、自分自身の下心に動かされ、最も大切にしたいと思っていた人を困らせ、悩ませてしまい、彼女の大切な時間を台無しにしてしまった…」

 

彼は、自分自身の行動に恐怖した。何でもない事が恐ろしい罪でも犯したように感じられた。それから逃れるには死ぬしかない。そう彼は思い詰めた。そして、安全カミソリを手にいれるために初めて部屋の外に出た。陽光が彼の心に重苦しくのしかかる。今の彼には、日中の光は眩しすぎた。彼は太陽を避けるように歩いていった。

 

そんな彼を彼女は見付けた。この1週間、どれほど長く感じただろう。彼女は、彼があの日のようにまっすぐに自分の方に来てくれると思った。一瞬、心が揺れ動く。彼を前にして、自分は、どうしたら良いのだろう。けれども、そんな期待と不安は裏切られた。彼は何かに憑かれたように、視界から遠ざかっていった。そのことが反対に彼女の心を駆り立てた。この機会を逃してしまっては、また、重苦しい日が続く。彼女は、意を決して彼の後を追った。

 

彼は、何かに追い立てられるように人気のない方へ早足で歩いていった。裏門、海岸道路、そして堤防。人気の無い砂浜で、初めて彼は立ち止まった。そして、次の瞬間、彼の左手首の上を、銀色の光が走った。そして…。

 

ゆるやかに時が止まった。

 

                                    〔完〕

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仮面の情景 3

 

   仮面三、優しさの行方

 

「わぁ、ほんとに来てくれたの? 嬉しい!」

 

久し振りに入った喫茶店で突然そんな声をかけられ、僕は驚いた。

 

目の前に、23日前に別の喫茶店で話をした女の子の顔。僕は慌てていった。

 

「いや、偶然…たまたま入っただけだから…」

 

そういえば…。

 

記憶の中であのときの会話が弾けた。

 

「エスプレッソという店で働いてるの」

 

確か、そんなことを言っていた。この喫茶店はそんな名前だったのだろうか。

 

一瞬の戸惑い。しかし、喫茶店に入っただけのことだ。僕は、そんな心の揺れをごまかすように早口で注文した。

 

「アイス・オーレ」

 

彼女と初めて会ったのは、ほんの23日前。1週間に数回は立ち寄るセッションという名の喫茶店だった。マリーンの音楽が流れる店内。ピザとコーヒーの匂いの漂うカウンターで、彼女は明るく元気な声で話していた。

 

「…そう。三月までP市にいたんだけどぉ、帰ってこいって言われて…。今、エスプレッソで働いてるの。ほら、あたしに代わったらお客さんが減ったなんて嫌でしょ。だから、今、一生懸命…。だから、またたまには寄ってね。…でも、セッションって良いよね。また、終わってから来ようかなぁ…」

 

21歳。一生懸命大人振っている。そして、怖いもの知らずの明るさ。そんなモザイクに若さと子供っぽさを感じた。それは、可愛らしさでもあったが…。

 

僕は、余り話しかけはしなかったが、笑顔で、彼女の話を聞いていた。やがて、時計は午後10時を回った。彼女は、少し残念そうな表情で帰った。

 

1度目は偶然。しかし、2度目からは違った。何となく気になって、エスプレッソに立ち寄る。「アイス・オーレ」はいつしか「いつものやつ」になった。そして、電話…約束…映画館。他愛ないおしゃべりが重ねられ、それが心の距離を近づけていく。

 

「…そう、岡村孝子って好きよ。『夢をあきらめないで』それから『オー・ド・シェル』そして『GOOD-DAY~思い出に変わるならば~』。今、あまりお金無いから一番新しいアルバムまでは持ってないけれど」

 

「…ほんと、知らなかった。あの『踊り子』は習作だったのね。この前、美術館に来た時も見たのに気づかなかった。なんか、感動しちゃった」

 

「…ねえ、やっばり凄いでしょぉ。トム・クルーズ…。あたし好きなんだ。でも、それだけじゃなくってぇ、面白かったと思わない? けっこう感動もさせてくれたし…。ね、見に来て良かったでしょぉ。ね」

 

出会う度に積み重ねられるおしゃべり。そして、何気ない微笑みの交換。ありふれた日常のありふれた楽しみ。しかし、こんな他愛ない事が、思っていた以上に楽しかった。

 

どう贔屓目に見ても「美人」とは言えない顔。好みに反して長くない髪。ちょっと低めの身長。少し寂しい胸のふくらみ。ちょっとだけ短めの足。もう少しセンスが良ければ、もっと可愛くなるであろう服装。精一杯背伸びをした言葉。だけど、その明るい声と人懐っこい微笑みは、確実に僕の心に刻まれていった。しかし…。

 

僕の中には迷いがあった。彼女と過ごす時間は楽しかったが、彼女とともに「日常の生活」を積み重ねていく自信はなかった。人々との関わりの中で、針のように尖り過ぎた僕自身の感性が惰性に流れようとする周囲を突き刺し、それ以上に僕自身を傷つけていた。

 

そのバランスを辛うじて支えてくれているものが絵だったが、それでは生活することが出来ず、美術の非常勤講師と幾つかのバイトで生計を立てていた。多少の自由時間ととりあえずの経済的なゆとりはあったが、安定した生活はなく、人生そのものがいつ崩れてもおかしくない状態だった。それゆえに、自分自身の「想い」すらも心から信じられなかった。…これが本当の恋なのだろうか。そして、このまま進んでしまっていいのだろうかと。

 

そんなある日のこと。

 

「…今日は少しぐらい遅くなってもいいの。だから…」

 

口づけすらもしない僕。何も求めない優しさは「毒」なのか。それゆえに、会えば会うほど不安が積み重なっていくのだろうか。微かに目を伏せて小さく彼女は囁いた。何気なさを装ったつもりだったようだが、それは、彼女のギリギリの言葉だった。

 

けれども、僕は何も言えなかった。分かっていながら言えなかった。重苦しい沈黙。近づく彼女の家。抱き締めてキスするだけでも良かったのだろう。しかし、僕は、それすら出来なかった。

 

「…ねえ、どうしてそんなに優しいの? 優しすぎるの? もっとメチャメチャにしてほしいのに。もっと傷つけてほしいのに。そうすれば、きっとあなたはあたし一人だけを愛してくれるのに。…お願い、今だけはあたし1人を見詰めて。あたし1人を傷つけて!」

 

僕は彼女の家の前でアクセルを踏んだ。車は2人を乗せたまま夜の国道を駆け抜けた。夜の砂浜の抱擁、そしてキス。激しい感情のうねりに流されるまま、車は小さなラブ・ホテルに入っていった。

 

窓のない暗い壁。小さなテーブル。ガラス越しに見えるバスルーム。そして部屋を圧するように置かれたダブルベッド。彼女は不安そうな目で僕を見た。掠れた、小さな声。それでも、震える肩を僕に預けた。

 

「…ほんとは、初めてなの…」

 

その一言に、一瞬、僕の指先は停止した。しかし、ここで止めることも怖かった。「好きだよ」と囁きながらブラウスのボタンを外し、スカートを下ろす。ブラのホックを外し、僕の手は恐る恐るパンティーに掛かる。そのときだった。

 

「…いや、…やっぱり怖い…」

 

小さな叫び。けれども、その叫びに、無理に煽ろうとした情欲の炎は萎んでしまった。

 

僕は天井を仰いだ。これ以上は無理だと思った。全身から燃えかかった熱い炎が消えていく。たとえ、どのように思われようと、これ以上自分の中にある迷いを押し潰して彼女を抱いてしまうことはできなかった。僕はパンティーから手を離し、ブラのフロント・ホックをかけながら言った。

 

「やっぱり、止めよう。震える君を無理に奪いたくない」

 

彼女は、おずおずと僕を見た。そして、寂しそうにうなずいた。重い沈黙の闇の中、僕たちはお互いが背中を向けたまま服を着た。それから僕は先に部屋を出て、車のエンジンをかけた。やがて、服装を整えた彼女が現れ、黙って助手席に座った。車を出すとき、彼女はポツリと言った。

 

「やっぱりあなたは優しすぎる。…ううん、優しすぎたわ」

 

その後、彼女は僕から顔を背けたまま、黙って窓の外を見ていた。そんな彼女に、僕は、何に一つ言葉を見付けられなかった。カーステレオの歌だけが場違いな明るさを流し続ける。擦れ違う車も無い夜の国道を、僕たちは一言も言葉を交わさずに車を走らせた。

 

やがて、車は、再び彼女の家の前に来た。車を止めると、彼女は初めて僕の方を見た。目にいっぱい涙が溜まっていた。彼女はそのまましばらく僕を見詰めていたが、やがて目を閉じた。2筋の涙と共に絞り出すような言葉が彼女の口から流れた。

 

「さようなら」

 

彼女は、大きな音を立ててドアを閉めると、家の明りに向かって駆け出した。岡村孝子の音楽が流れる中、僕は、いくつ目かの恋の終りを感じていた。

 

                                    〔完〕

 

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仮面の情景 2

   仮面二、グラス

 

「私、もうおばあちゃんになってしもた。まだ四十代やで…」

 

カウンターを隔ててママが言った。昨年結婚した下の娘に女の子が生まれたというのだ。まあ、おめでたいことではあるのだが、どうも「おばあちゃん」が引っ掛かっているらしい。俺は、苦笑しながら水割りの入ったグラスを口に運んだ。水曜の深夜11時。もう1人いた客は10分程前に帰っていた。

 

「飲も。今日は飲みたい気分なんや。」

 

俺はうなずきながらボトルをとって水割りを作ってやった。もう、かなり飲んでいるようだ。嬉しさとほんの少しの寂しさの入り交じった気分というところか。何となく分かるような気がする…と言ってしまったら少しばかり格好をつけすぎかもしれない。まあ、細かいことは無視して、今はいっしょに飲んでやろう。俺は再びグラスを口にした。

 

ここマリオネットに通い出してからもう4年になる。といっても入り浸りというほどではない。せいぜい、月に12回来れば良いほうなのだ。

 

黒い壁とカウンター。赤い色をした形ばかりの背もたれしかない丸い椅子。簡素な、余り広くない店内。最初来た頃は若い女の子をたくさん使っていたこともあって、もっと客の姿も多かった。けれども、フィリピンの女の子も見えなくなってしまったこの頃では、目に見えて客足も減ってきている。ドアを開けた途端何人もの若い声が迎えたあの頃の華やかさはもう無い。入院など、色々な理由もあっての事だろうが、今は1人で店をやるのが精一杯なのに違いない。

 

そんな店にこうして通っているのだから、俺もかなりの物好きだ。まあ、それでも、ママが気にいっているのだから仕方がない。別に美人という訳ではないし、優しい訳でもない。それどころか、思ったことをはっきり口にする質で、時には耳の痛いことをはっきり口に出す。つまり、良い意味でも悪い意味でもさっぱりしているのだ。まあ、そこが気に入っている最大の理由なのかも知れないが。

 

スナックに限らないが、一度気に入ってしまったら徹底的にそれに拘る。それが俺の悪い癖だ。まあ、スナックなどに「拘る」などという言葉を使うのもバカバカしいが、とにかく、ここのママが気に入っている。で、結局この店も2週間と御無沙汰出来ないでこうして飲みに来る。そんなある晩の出来事だった。

 

人の好意などというものは鏡に似ている。こちらが好意を持つと向こうもそれを返してくれるのだ。で、ここマリオネットでも、金払いがいいこと、暴れたり、人に絡んだりしないこと、わりと付き合いが良いことからいつの間にかすっかりママにお気に入りになってしまったらしい。会計なども、最近は少し安くなったように感じるのも、どうやら気のせいではなさそうである。

 

その辺は良いのだが、時として、愚痴を聞かされ、その挙げ句、「よその店に行こう」と誘いがかかる。で、NOと言うことの出来ない付き合いの良い俺は、ついその誘いに乗ってしまうのだ。それが、気に入られる最大の原因かもしれない。

 

「実はね、今回お金がなくて、きちんとお祝いしてやれなかったの。入院もしたしね」

 

ママの話が続く。嬉しさと寂しさと悲しみ。こんな時に上手に慰めてあげられるほどの人生経験は俺にはない。俺に出来るのは、精々、一緒に飲んで話に相槌を打ってやることだけだ。しかし、こんな時に一人ではやり切れないこと位は分かる。俺は一瞬明日の仕事の事を考えたが結局は諦め、暫く付き合う覚悟を決めた。それからの俺は、グラスを重ねながら意識して聞き役に回った。

 

さて、かなり出来上がってきたママを前に、もう1つの悪い予感が頭を掠めた。こんなときの予感はだいたい当たる。はたして、10分もしないうちにママが言った。

 

「よそで飲もうか?」

 

明日は朝から仕事が入っている。本業の方ではないので、多少の融通は利くが、余り遅くまであちらこちらと振り回されるのはつらいので先手を打つことにした。

 

「ラ・メールに行こう。あそこならボトルも置いてある」

 

そう言って挙げたのは10メートルと離れていない近くのスナック。

 

カウンターしかない小さな店だが、カラオケの曲も豊富で、店の雰囲気も落ち着いていて、わりと居心地は良い。それに、ここも元もとはマリオネットのママと行ったのがきっかけで馴染みになった店だ。ママもすぐOKを出した。

 

話が決まったら後は迷ったり考え直したりする時間が無いほうが良い。俺は「先に行く」と言ってマリオネットを出た。

 

しかし考えて見れば俺たちは奇妙な関係だ。俺の中にはもちろん生々しい男と女の感情はない。だいたい、俺の方が10歳以上も若いし、第一俺は客なのだ。ママの感情の揺れを慰めたり、それゆえにママに付き合ったりする義理など無い。それなのにこうして付き合ってるのだから、おかしなものである。…まあ、いいか。

 

ラ・メールも客は少なく(平日の12時前では当然か…)、すぐに俺たちだけになった。ラ・メールのママはマリオネットのママより少し年上だ。で、マリオネットのママは安心してグラスを重ね、マイクを握る。まあ、俺の方も同様だが…、1人で相手をせずに済むだけ楽と言えば楽だ。

 

カラオケの合間に、またおばあちゃんになった話。やはり、嬉しさばかりではなく、どこかしら寂しいのだろう。

 

けれども、こんな職業でも、いや、こんな職業だからこそ、相手と場所を選ぶ。俺とラ・メールのママだけだから安心できるのだろうか。…しかし、俺は一体何なんだ。そして、こんな所で何をしてるんだ。

 

そんなこんなで1時間。どこかでバカバカしさを感じながらも、1番年下の俺はあくまでも優しく(?)、一緒に歌い、騒ぎ、グラスを重ねた。

 

男達が現実から離れたくてやってくる夜の店。しかし、そこで働く女達にも生々しく、そして時には痛々しい現実がある。普段は明るく優しい女達が不意に見せる心の揺れ。それを見てしまった男は幸福なのか、不幸なのか。

 

いずれにしても、今日はその種の珍しい一瞬の1つなのかもしれない。俺は、最後の歌を歌い終わってマイクのスイッチを切った。

 

6,000円…

 

ラ・メールのママが俺にそっと勘定を示した。グラスに半分ほど残ったブランデー。氷はほとんど溶けてしまっていた。

 

                                    〔完〕

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仮面の情景 1

 

   仮面の情景

 

 

「僕」の仮面、「私」の仮面、「俺」の仮面、「彼」の仮面…。現実を生きていく中で、人は様々な「仮面」を被る。自らの良心を裏切り、感性を押し潰し、理性を捩じ伏せて、やっとの思いで被った「仮面」で「笑う」。「素顔」では泣きながら、「素顔」では傷付きながら、そして「素顔」では怒り狂いながら…。

 

「仮面」と「素顔」の断絶。その溝が見えない人は幸せだ。その深さを感じずに済む人は幸せだ。けれども、それに気付き、それを見詰めてしまった瞬間、苦しみの日々が始まる。外側に張り付けた「仮面の笑顔」の内側で、「本当の俺は違うんだ! 」と叫んでいる自分が見える。「仮面の笑顔」の内側で深く傷付き、虚ろな目で「現実」を踊り続ける自分が見える。あるいは、「仮面の笑顔」を引き剥がして、「素顔」に戻ろうと苦闘する自分が見えてくる。それらは確かに大いなる苦しみだろう。しかし、ある意味では、それもまだ幸福なのかもしれない。なぜなら、傷付きながらも、苦しみ歪んだ「素顔」が残っているからである。

 

最も恐ろしいこと。それは、いつの間にか「本当の自分」が「仮面」に侵略されている事に気付かないことである。意識して被っていた筈の「仮面」が、音も無く、ゆっくりと、「素顔」に張り付き、「素顔」を同化していく。そして、それに気付いた時、「仮面」は、取ることが出来なくなるまでに「素顔」と重なっている。…狂気の微笑みを滲ませながら。

 

 

 

 

 

   仮面一、祈り

 

 

少女は、緑のタオルで左目を押さえ、じっと痛みに耐えていた。

 

楽しかったはずの遠足の午後が、不安と痛みの中で流れていく。見知らぬ町、遠い病院、いまだ良く知らない若い先生、そして、何よりも、目の怪我への不安…。少女と付き添いの先生を乗せて、タクシーはI市の病院へと向かっていた。

 

私は、そっと、陽子の方に目をやった。

 

「先生、陽子ちゃんのコンタクトレンズが割れてしまったんやって…。どうしょう…」

 

そこまでは何事も無くきていた遠足が、最後の休憩場所でアクシデントに見舞われた。小さな山の不動尊の前の手洗い場で何気なく振った誰かの柄杓が、コンタクトレンズに当たったのだという。側に居た私は、直ぐ目を洗わせたが、そのままにしては置けなかった。陽子の担任の先生にも連絡して話し合った結果、この町から通勤している私が、町の病院に連れていくことになった。私たちは、タクシーで町立病院に向かった。

 

病院には10分程で着いた。しかし、眼科がないということで、L市の市民病院にまで行かなければならなかった。L市までは、40キロ程の距離がある。時間がかかることは確実だ。とはいっても、なるべく早く陽子の手当てをしなければならない。幸い、先程私たちを乗せてきたタクシーはまだそこにいた。私は、そのことを学校に連絡し終えると、陽子を連れて、再び、タクシーに乗った。

 

人の善さそうな運転手が、時々、話しかけてくる。付合いの良い私は、それに相槌を打ちながらも、ずっと、陽子の様子を見ていた。陽子は大丈夫だろうか。そう思いながらも、私はそんな心を陽子に伝える適当な言葉を探し出せないでいた。

 

陽子は、ほとんど、喋らず、ドアに身体をもたれさせて目を閉じている。痛みが酷いのだろうか。時々声を掛けてみても、少しうなずく程度の返事が帰ってくるだけだ。それゆえに一層気になるのだが、だからといってどうすることも出来なかった。

 

やがてタクシーは橋を渡って隣の町に入った。こんもりとした緑の岬。粒の粗い灰色の砂を敷きつめた砂浜。向こう岸にぽつりと浮かぶ灯台。この辺りの風景はわりと綺麗なのだが、今日はそんなものを楽しむ余裕など無い。見覚えのある外の景色も、今は只I市との距離を示すだけ。時を刻む腕時計の微かな音も、それと同様であった。

 

L市までは1時間。その間、私が陽子にしてやれることは何もない。只、こうして陽子を見ていることしか出来ないのだ。それが、堪らなく辛い。しかし、無理に平静さを装って、運転手の話に相槌を打っている。結局、そんなことしか出来ないのだ。そのことが私には苦しかった。力のない自分が堪らなく悲しかった。

 

陽子は相変わらず痛めた左目に濡れたタオルを当てて黙っていた。体もほとんど動かさなかった。重く沈んだ空気。その沈黙の深さを通して、陽子の左目の痛みが伝わってくる。それが私や運転手を少しずつ寡黙にしていった。

 

「三園木眼科が亡くなってから、本当に不便ですよねえ…」

 

「そっちの中学はどうですか? うちの下の奴も来年には中学卒業ですよ。誰に似たんだか出来が悪くってねえ…」

 

運転手は、その重苦しい静けさに耐えかねるのか、時々思い出したように私に話しかけてくる。何の関係も脈絡もない泡沫のような話題。いい加減な言葉のやり取りであっても、この重い沈黙はごまかせる。けれども、私は、次第にそれに答えるのが億劫になってきていた。当たり障りのない相槌をうつのが面倒なのだ。いや、それよりも何よりもそんな些細な事にまで神経を使いたくないという方が本音に近いかもしれない。今は、そんなことに使う神経もすべて集中して陽子の様子に気を付けてやりたいと思うのだった。

 

陽子は相変わらず、黙って目を押さえていた。それを見ていると、今更ながらに、何も出来ない自分の力の無さを思い知らされる。私に出来ることは、陽子にしてやれる事は何も無い。それは、仕方のないことなのは分かっていた。しかし、何かしてやりたい。私は心からそう思った。いつしか、その思いだけが私の胸の中に広がっていた。

 

…出来ることなら代わってやりたい。その結果、私の目が抉り出したくなる程痛んだって構わない。それによって少しでも陽子の痛みが和らいでほしい…。

 

何かをしてやりたいという思いは、やがては、私の中でそんな言葉へと結晶していった。ひたすら、それを心の中で繰り返す。だからといって、何も変わるわけではない。そんなことは他の誰よりも自分が一番良く知っていた。けれども、私はそう念じずにはいられなかった。そんな中でごく微かに私の左目が痛んだような気がした。もちろん気のせいなのだろうが、そんな風に、少しでも陽子の痛みを代わりに感じてやりたいと思うのだった。 10分…20分…。時間は、重苦しい足取りで流れていく。陽子の目は大丈夫だろうか、大変な怪我ではないのだろうか。心配は、いつしか祈りに変わっていた。

 

…どうか、大した怪我で在りませんように。なるべく早く良くなりますように…。

 

やがて私の頭の中からは、それ以外のことは消えていった。陽子…陽子…陽子…。私は心の中で陽子の無事だけを願い、それだけを念じた。

 

祈り…。別に、祈るような姿勢をとったわけではなかった。けれど、私の心は、確かに祈りの中にあった。

 

そんな静けさの中をタクシーは、L市へと走り続けた。橋を渡り、山を越え、トンネルを抜けた。そして、2つ目のトンネル。市民病院まであと少しだ。私は、もう一度陽子を見た。陽子は相変わらず目にタオルを当てたままじっとしていた。

 

そして、1時間が過ぎた。

 

タクシーは、市民病院の中に滑り込んだ。私は、陽子を連れてタクシーを降り、病院へ入っていった。受け付けでの簡単な説明とカードの記入。陽子は黙ってロビーのソファーに座って待っていた。午後3時半という時間のせいか受け付けに並ぶ人の姿もほとんど無く、陽子はすぐに診て貰うことができた。

 

「眼科は2階です。そちらの階段を上がって左手にあります」

 

私は、陽子と一緒に2階の眼科の前にある長椅子に座り、順番を待った。程無く陽子が呼ばれ、暫くしてから私も中に入った。医者は落ち着いた声で説明を始めた。

 

「大丈夫です。眼球の中にレンズも残っていませんし、少し、結膜炎を起こしているだけで、心配はありません」

 

その言葉を聞いた瞬間、私の祈りは終わった。廊下に出ると、階段を上がってくる陽子の母親の姿が見えた。

 

                                    〔完〕

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