カテゴリー「ラックからのミニ評論」の36件の記事

文芸同人誌「青い鳥」に連載中のエッセイ集

『星野、目をつぶって。』を読む

ラックからのミニ評論37

『星野、目をつぶって。』《永椎晃平》を読む


2016年の少年マガジン新連載マンガで、人気ナンバーワン……の帯に釣られて買ってしまったマンガだが、雑誌連載は毎回読んでいた作品。けれども、それ程人気があるとは考えていなかった。というのは、主要登場人物が皆、「いじめ」の傷を隠しているからである。主人公の小早川は、小学校時、憧れ、仲の良かった【加納くん】という男勝りの女の子がいつの間にかいじめのターゲットになってしまった時、最後の最後で彼女に手を差し伸べられず、とうとう転校という形で失ってしまったことに深く傷つき、周りの他者との表面的な「仲良しごっこ」を否定的なまなざしで眺める高校二年生。彼が密かに憧れていた美術部顧問の弓削先生に頼まれ、引き受けることになったのが、同じクラスの人気者、星野海咲のメイクである。
 
星野はクラスでも人気のあるギャル系のかわいい女の子…と思いきや、実は小学校時代にスポーツが得意だった、というよりも上手すぎたために、周りから孤立した過去を持つ。けれども、中学校に入学した際に幼馴染みだった弓削先生にメイクをしてもらって人気者になり、仲の良い友達もできて高校に通っているが、不器用なためメイクが自分でできず、弓削先生そして小早川に頼っている。ただ、自分が孤立していた過去の体験から、いじめや困っている人を見捨てずに考えなしに突っ走ることが多く、その際に正体を知られないようにメイクを落としジャージ姿で行動する。小早川は弓削先生の後を受けて、突っ走る星野のメイクを直してやることになるのである。


また、小早川と同じ美術部に籍を置く松方いおりは、漫画研究会にも所属しているが、いじめのターゲットになっている。ある日、松方をいじめる加納グループに他の生徒が見て見ぬふりをしたり、面白がったりしている中、星野はメイクを落とし、ジャージ姿で割って入り、キックを食らわせる。星野の優勢に生徒たちが遠巻きにはやし立てたり加納に物やジュースを投げたりする中、メイクが落ちそうになって顔を隠す加納をかばって小早川はプレサーの上着をかけてかばい、言い放つ。

 
「何が元はといえばだ。テメエが正しいみたいに言ってんじゃねぇ
!! …(中略)…どいつもこいつも横目で人の顔色見ることしかしねぇクソ共だ!! …(中略)…何もできてないだぁ!? ああ そうだよ。みんな仲良く「何もしない」ことを選んでるテメエらよりもましだけどな!! テメエらこそ偉そうにガタガタ言う前に誰か一人でも…黙ってドロップキック出来んのかっつってんだよ!!! 」と。

 
この言葉はバレーが大好きで努力を続け先輩たちよりも上手であるがゆえに孤立する添島や野球部のエースで人気者だがLGBTという秘密を持つ高橋の胸を打ち、彼らの自覚と行動を後押しするとともに小早川の存在の大きさを強く意識するきっかけとなる。一方、この事件で孤立しつつも小早川を好きになった加納愛那果、実は彼女こそ、小学校時代に孤立させられた時に小早川が助けることができなかった【加納くん】だったことを知る。加納は孤立させられ転校した時、いじめられないようにするため、いじめる側に回る、という選択をして現在に至ったのだった。


様々な問題を抱えながらも、結局は、他者のために動いてしまう小早川と星野。そして、支えられたからこそ小早川に関わろうとする生徒たち。今後の展開にも目が離せなくなりそうだ。

              〔完〕

 

 【TEXT】

  『星野、目をつぶって。』

      1~4巻

      作  永椎晃平

   2016~17年 

 講談社少年マガジンKC

 

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『世界「最終」戦争論』を読む

ラックからのミニ評論36

 

『世界「最終」戦争論』内田樹・姜尚中を読む

 


この本を手に取ったのは、以前から内田樹の著作に何度か触れて、それがけっこう面白かったことによる。また、対談相手の姜尚中については、週刊誌等の執筆記事で目にしてはいたが、本を買おうという気にまではなっていない。ただ、姜尚中の鋭さはけっこう気にいっていたので、この二人の対談なら面白いだろうな、という思いもあった。そしてまた《近代の終焉を超えて》という副題にも心を惹かれた。読んだ結果は、読む前の予想をはるかに上回る面白さだった。


二人の話は昨年(二〇一五年)十一月のパリの同時多発テロのことから始まる。なぜ、パリ/フランスなのかという疑問は、実はフランスが第二次世界大戦時のヴァシー政権による加害(ナチスへの協力による虐殺への加担)の罪をうやむやにすることで戦争責任をごまかしていたという話である程度すっきりする。それをごまかすことで、自らの抱える格差・差別への矛盾ときちんと向き合えていない現実がテロを呼び込むことにつながっているということだ。


これは、心理的にも納得できる話である。と同時に、わが祖国・日本の現状ともリンクする話であり、日本の将来を思うと暗い気持ちになる。例えば日本は、広島や長崎、東京大空襲などで無差別爆撃を受け多くの一般国民が亡くなった……という意味では、国民は被害者である。だが、日本は例えば南京や重慶などの都市に「渡洋爆撃」という形で無差別爆撃を行った加害者でもある。だが、アベシンゾウをはじめとする少なくない政治家たちが、こうした日本の加害責任と向き合わず事実を矮小化したりなかったものにしようとしたりするゴマカシを平気で行っている。それは、差別やヘイト・スピーチなどとも心情的につながっていることは明白で、それが日本にテロを呼び込む原因の一つになるかも知れないのである。


そして、格差の拡大は新自由主義政策ともからむ。二人の話は、グローバル資本主義自体が、アメリカ標準を世界に押しつけたものに過ぎず、そのことがイスラム世界の価値観とうまく調和できず、新自由主義による格差の拡大がテロや多量の難民を生み出す大きな要因の一つである、と看破する。新自由主義による格差の拡大は日ごろから感じていたことではあったが、それがテロばかりでなく、多量の難民の発生とも深く関わっていたという点については、目から鱗……だった。この一点が理解できただけでも、この本を買い求めた価値があったと思う。


他にも、新自由主義の「効率」からすれば、基本的人権や環境が効率化の阻害要因となる……という話と安倍自民の憲法改正案とのリンクや、日本が近代以降、エネルギー政策でいかに多くの人間を犠牲にしてきたかという話とフクシマでの作業員の現実など、安倍政権の非道な所業のバックに存在する新自由主義の問題についても多くの知見が提供されている。普通の人々の幸せのために新自由主義をどう超克していくか。それは今後の重要な課題であり、この本は今の現実を理解する上で重要な補助線となる内容に満ちているなあ、としみじみ感じた。


新自由主義による日本の荒廃はどんどん進んでいる。それは、シビアな現実だし、人間の欲望が深く関わっている以上、その流れを変えるのは必ずしも簡単ではない。けれども、努力を重ねている人たちはたくさんいるし、今、自分がやれそうなこともいくつかある。やれることを重ねながら、少しずつ流れを変えていく努力を続けていきたいと思う。

                         〔完〕

 

 【TEXT】

  『世界「最終」戦争論』

    ―近代の終焉を超えて―

    作  内田樹・姜尚中

       二〇一六年 

    集英社新書

 

ISBN978-4-08-720836-8

 

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『ログ・ホライズン』を読む

ラックからのミニ評論35

 

 

『ログ・ホライズン』 《橙乃ままれ》を読む

 


『ログ・ホライズン』を知ったのは、鳥羽の図書館の読書会のグループで取り上げられたのがきっかけだった。ただ、ゲーム、特にロールプレイングゲームをしたことがない女性メンバーが多かったため、作品世界についていけず、一巻も読み切れずに挫折したメンバーがほとんどだった。しかし、個人的にゲームをしていた時期もあったことから、HPやMP、プレイヤーのレベルといったイメージに違和感がなかったため、読み進めることができた。読んでいくと、ある程度コミュニケーション能力に問題のある主人公や登場人物の交流や人間的成長、民主主義や人権の問題などもいろいろと考えさせてくれるストリー展開であったため、結局、出版されているところまで小説を買ってしまうこととなった。この作品は、ネット連載で読めるだけでなく、マンガ化やアニメ化もされ、子どもたちに人気を博している。


ネットで世界中とつながっているファンタジー系のロールプレイングゲームである〈エルダー・テイル〉をプレイしていたシロエ(白鐘恵)たちは、〈大災害〉によって魔法や幻獣の存在する中世ファンタジー(エルダー・テイル)のゲーム世界に組み込まれ、現実に戻れなくなってしまう。もちろん、現実世界の記憶はあるのだが、ゲームの中でプレイしていたキャラに現実の自分が投影されているような外見となり、身体能力はゲームのキャラの特性とレベルによって跳ね上がり、普通の人間よりも強靭な肉体と体力、そしてキャラの職業によっては魔法も含む超人的な技を使える。だが、ゲームをやめて元の世界に戻ることはできず、殺されても復活してしまう。また、現実で暮らしていたような近代法のない社会で、現実に帰還できる希望の見えない絶望から、心の弱い人間は弱者いじめや自暴自棄の行動に陥る場合も出てくる。それを良しとしないシロエは、親友の直継やゲームでの冒険を共にしたアカツキ、にゃん太らと共にモンスターを倒したり生活を共にしたりするギルド【ログ・ホライズン】を結成し、マリエールやヘンリエッタらが集うギルド【三日月同盟】らと協力しながら、他のギルドにも働きかけ、自分たちの暮らすアキバに〈円卓会議〉という自治組織を立ち上げ、状況を改善するための努力を積み重ねながら、それぞれが人間的にも成長していく物語となっている。


巻き込まれた初心者プレイヤーを殺してアイテムやお金を奪うPKを禁止したり、プレイヤーである〈冒険者〉とゲーム中では背景であったゲーム内での人間たち〈大地人〉たちの社会との共存を模索したりと、シロエの発想はかなり自覚的で民主的で人権を尊重したものとなっている。また、限りある命を生きる〈大地人〉に対して、死ぬことも出来ず、また現実に帰還することも出来ない〈冒険者〉の苦悩や、復活に際して少しずつ現実世界での記憶が失われていくリスクあるいは恐怖など、ゲーム世界の特性と現実との対比の中で、生きることの意味を問い直すきっかけも与えてくれる。


それから、元々がゲームのプレイヤーということで、シロエやアカツキなど対人関係をちょっと苦手としている登場人物もけっこうあり、共に時間を過ごし、支え合う中で、お互いの弱さに向き合いながら心を通わせ、関係を深めていくことを通じてコミュニケーションも深まっていくなどという展開は青年期の成長課題などとの関係から読んでも非常にリアルで興味深い。


物語はまだまだ続いていくが、ゲームがらみと侮れない面白さがある。

              〔完〕

 

 【TEXT】

  『ログ・ホライズン』①~⑩

    作  橙乃ままれ

       二〇一一~一五年 

    KADOKAWA

 

ISBN978-4-04-727145-6   ISBN978-4-04-727298-9 

ISBN978-4-04-727413-6   ISBN978-4-04-727543-0

ISBN978-4-04-727669-7   ISBN978-4-04-728235-3

ISBN978-4-04-729175-1   ISBN978-4-04-729926-9

ISBN978-4-04-730190-0

ISBN978-4-04-730674-5

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『風に立つライオン』《さだまさし》を読む

ラックからのミニ評論34

 

『風に立つライオン』 《さだまさし》を読む

 


「風に立つライオン」は、もともとは、さだまさしの《夢回帰線》というアルバムの最後に収録された歌である。歌の完成は一九八七年ということなので二五年以上も前に出来た歌である。四半世紀以上も前の歌であるにもかかわらず、この歌は、「主人公」と共に、さだまさしファンの多くを魅了し続けている歌の双璧であり、紅白歌合戦でも歌われている。また、この歌は「鐘楼流し」「椎の実のママへ」「極光」といった歌と同じように、モデルとなった実在の人がいる。さだの父親の友人で柴田紘一郎という医師である。この歌がきっかけとなって作られたNPO法人【風に立つライオン】は毎年インドのマザー・テレサの終末病院に医師を派遣し、東日本大震災の時には医療バス「風に立つライオン号」を被災地に走らせている。私も、社会科の教師をしていた時に、授業でこの歌を使ったことが何度かある。


この歌に影響を受けた一人に、俳優の大沢たかおがいる。彼は、この歌を映画化したいと考え、さだまさしに、原作小説を書くように、と迫る。大沢の熱意によってさだは五年の歳月を費やして小説を完成させ、二〇一五年の春には大沢の主演による映画も完成して公開されている。


今回は、先に映画を見てから小説を買い求めたが、歌に始まり、小説、映画と、それぞれに趣のある作品となっていると思われる。ある意味では、この原作小説がもっとも地味であるかも知れないが、小説という手法を生かした、奥行きのある作品となっているように感じられる。


歌のモデルとなった柴田医師がケニアのナクールに行ったのは一九六〇年代。その後、私たち日本人は阪神淡路大震災と東日本大震災という大きな震災を経験している。私も、フクシマでのボランティアを経験したが、生と死や人と人とのつながりについて改めて深く考え直す機会ともなった。フクシマ後に書かれたこの小説は、震災後の東北のシーンからスタートする。それは、時間の関係もあって映画では十分に描ききれなかった部分でもあるが、小説の中ではじっくりと描かれている物語の根幹と深く関わる部分でもある。航一郎という青年医師のケニアでの戦災児たちとの出会いと交流。戦争によって他者と未来に対して心を閉ざしていたンドゥングという少年が、航一郎との出会いと交流の中で次第に生きることの重さと豊かさに目覚め、航一郎のように医師になりたいという夢を育んでいく。


だが、航一郎は医師となったンドゥングの姿を見ることは出来なかった。現地のスタッフが躊躇するのを聞かずに、危険地帯の向こうにある村に往診に出かけた航一郎は、そのまま帰らなかったのである。映画を見ていて、航一郎の生きざまには胸を打たれたが、原作小説の中では、その航一郎から「心」のバトンを受け取ったンドゥングが、震災地に立って、現地の人々と関わりながら医師として活動を続ける姿も丁寧に描かれる。紛争地としてのケニアと震災地としての東北、そして航一郎とンドゥング。時間を超え、空間を超えて、強くて温かな「心」のバトンが人から人へとつながっていく。


歌として完成された「風に立つライオン」を別の形で物語に編む時、東北の被災地の描写はどうしても必要だったのだろう。忘れられないこと、そして忘れてはならないこと。人が人として生きていく時に、いくつもの重さや辛さを抱えていかなければならない。地味でも、一歩一歩歩み続けることで少しずつ見えてくる未来もある。一人の人間の一生だけでは足りなくても、「心」のバトンをつないでいくことで、人は生き続け、夢もまた生き続けていくのかもしれない。

                     〔完〕

 

 【TEXT】

  『風に立つライオン』

    作  さだまさし

    二〇一四年 幻冬舎文庫

    ISBN978-4-344-42297-1

 

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『月夜のみみずく』《J・ヨーレン》を読む

ラックからのミニ評論33

『月夜のみみずく』 《J・ヨーレン》を読む


ヨーレンを知ったのは、『水晶の涙』というファンタジー小説だった。この本は、この連載の初期にも取り上げているので、もう、十五年ほど前のことになる。その後、『夢織り女』など、いくつかのファンタジーを買い求めて読みふけったが、日本でもいくつかの絵本が出版されている……ということを知ったのは今年になってからだった。鳥羽子どもの本の会というグループで取り上げられたのがきっかけだったが、回ってきた本の作者にヨーレンの名があったことに驚き、何となく見覚えのある絵の画家の名前にジョン・ショーエンヘルがあったことにも驚いた。彼は、もっとずっと昔に読んだ『はるかなるわがラスカル』〔スターリング・ノース作/日本ではアニメ「あらいぐまラスカル」の原作として有名〕の版画家だったのである。そして、訳者は工藤直子、彼女の詩集『てつがくのライオン』〔理論社〕は愛読書の一冊である。そうした意味において、この本は、まさしく時間を隔てて読むべく巡り合った一冊だと言えるのかもしれない。


ストリーは、一人の女の子が、お父さんに連れられて、月夜の晩に雪の積もった道を通って森に入り、みみずくを見に行く、という、ただそれだけの話である。そして、それ自体は、ヨーレンの夫と娘による実体験が元になっている。けれども、ヨーレンの原詩に工藤直子の訳とショーエルヘルの写実的な絵が見事なハーモニーを奏で、とても印象的な絵本に仕上がっている。一九八九年に偕成社から発行されて以来、四一刷(二〇一四年一二月の時点。一五年に一月に購入した手元の本による)を数える人気もうなずける。


様々な読み方、楽しみ方がある本だが、カウンセリングなども日常的に行っている心理屋の目で読むと、通過儀礼としての一つの儀式的な意味合いも見て取れて興味深い。子どもではあっても、みみずくは自然の生き物である以上、自分の足でみみずくの住む森まで歩ける体力が必要であるし、また、森の中でみみずくに警戒させないように長時間静かにしていられる粘り強い精神力も必要となる。しかし、子どもの方でその条件を満たしたからといって、必ずみみずくに出会えるとは限らない。相手は、人間の希望に関係なく自分勝手に動く動物だからである。だから、出会えないかもしれない可能性も受け入れる心の強さも必要である。それらが揃ってこそ、みみずくに出会える《かもしれない》のである。


そう考えると、今の日本の子どもたちの中には、中学生でも必ずしもそれらを備えているとは限らない子がいる。だからこそ、それにチャレンジできることこそが、子ども自身にとって自らの成長の証でもあるし、それを大人に認めてもらったことが誇りにもなる。精神的な成長を促す、通過儀礼としての儀式的な役割を読み取った所以である。


物語の中では、一緒に行ったとうさんの「ほうーほう ほ・ほ・ほ ほーーーう」のよびかけに応えて、みみずくが姿を見せる。少女にとって、長くも短くも感じる、大切な出会いの一瞬。ショーエンヘルの絵筆が、六ページにわたって、それを見事に描き出している。今時の大人からみれば、たわいもない事かもしれないが、子どもにとって成長に必要な大切な体験というものが確かにある。それを知る大人に支えられ、少女は階段を一つ上った。その感動をより多くの子どもや人々と分かち合えるように、母がペンを握った。これは、そんな絵本なのかもしれない。

                                                   〔完〕

 【TEXT】

  『月夜のみみずく』

    作  ジェイン・ヨーレン

    画  ジョン・ショーエンヘル

    訳  工藤直子

    一九八九年   偕成社

ISBN978-4-03-328300-5

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「資本主義の終焉と歴史の危機」《水野和夫》を読む

ラックからのミニ評論32

 

『資本主義の終焉と歴史の危機』 《水野和夫》を読む

 


新自由主義が世界を席巻してから、人々の暮らしは日を追うごと年を追うごとに息苦しくなっていた。それは、日本だけの問題ではなく、アメリカでもヨーロッパでも根っこの部分は同様であった。非正規労働者の激増、賃金の低下、若い世代の就労問題の増加・複雑化、格差の拡大等……。


新自由主義がおかしいことは何となく感じていた。歴史から学べば、資本主義というシステムが、中心が周辺部を搾取して利益を上げるが、技術革新やエネルギーの転換といった変化の中でかつての中心が次第に力を失い、中心にはかつての周辺部がとって代わり、新たな周辺部から利益を吸い上げていく……という形で変化を続けると考えられた。産業革命後のイギリスの勃興と発展、第一次世界大戦後のアメリカの勃興と第二次世界大戦後にかけての大発展、そして戦後の西ドイツや日本の発展と20世紀後半のアジアNIESやBRICs諸国の経済発展は、こうした流れで見れば、ある程度納得できた。そのような状況のなかで、アメリカが自らの衰退を阻止しようと無理やりに金融をはじめとする世界経済のルールを勝手に変更し強制しようともくろんだのが新自由主義・グローバル資本主義だと思っていた。その先兵として日本経済や世界経済を語る竹中元金融相や自民党の意見は矛盾が多く、トリクル・ダウンも起こらず、中間層の没落と格差の拡大は続いたので、バブル崩壊後の失われた二〇年という経験を通じて新自由主義が間違っていたことは実感できた。しかし、金融や電子マネーの動きについて頭の中で整理できなかったこともあり、経済状況をある程度しっかりと把握するという状態には程遠かった。


その辺りの事情については、第一章で、アメリカがイギリスと共に資本主義の延命策として「電子・金融空間」の創造によって新しい「フロンティア」を作り出し、金融による支配を確立することで経済的覇権を維持することにはある程度成功したことを整理してくれている。しかしその一方で、常にバブルを引き起こしてバブルに頼ることで主導権を維持しても、バブルに依存する事によって、実体経済に深刻な打撃を与え続けることになる事情もあぶりだしてくれている。こうした分析は、日本のバブル崩壊以降の世界経済の動きの説明として非常に納得できる。特に、一六世紀以降の歴史の流れから経済の動きと特性を整理して説明していく手法は、「専門用語」を駆使して説明するふりをしながら相手を煙に巻く竹中元金融相辺りの説明とは雲泥の差があり、理解しやすい。加えて、新自由主義の経済が民主主義を破壊していく…という記述は、各地に起こっている様々な事件を考えても多いに納得のいくものである。


新自由主義のやり方を見ていると、人権や安全や環境に対しての支出を「非効率」とすることが多いように感じられる。ベネッセをはじめとする日本国内での個人情報流出事件でも、その管理体制の甘さには怒りよりも恐怖を感じる。ベネッセの事件では情報流出の犯人が本社の正規職員ではなく、子会社の非正規労働者であった。重要な情報の特別な管理者として本社の正規職員が責任を持たない、持てないなど、システムの安全や利用者の人権を考えれば恐ろしいことである。韓国のセウォル号の海難事故でも、船の違法改造や脱出ボート安全設備の不具合の放置、船員の無責任な行動がやり玉に挙がっているが、安全性や責任感、人権意識よりも「金もうけ至上主義」の考え方と行動がこの事件を招いたことは容易に想像・分析できる。結局、近視眼的な短期の金儲けの効率を追求した結果、人間として人間社会で生きていく上に必要なことが抜け落ちてしまったのである。


この本では、格差を拡大して人権や安全、環境を蝕み続けるグローバル金融資本主義の先にある新たな経済システムの姿までは描き続けていない。ただ、真っ先にグローバル強欲資本主義の矛盾にさらされた日本は、それゆえに可能性を持つと言う。ただそれは、アベノミクスとはまったく異なる道である。       〔完〕

 

 【TEXT】

  『資本主義の終焉と歴史の危機』

       水野和夫  著

        二〇一四年 

    集英社新書

 

ISBN978-4-08-720732-3

 

 

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『荒野の少年イサム』 《山川惣治/川崎のぼる》を読む

ラックからのミニ評論31

 

『荒野の少年イサム』 《山川惣治/川崎のぼる》を読む

 

 


最近、子どもの頃に夢中になったマンガの復刻版を書店の店頭で見ることが多い。かつては全巻そろえられずに涙をのんであきらめた作品でも、今なら……というケースは結構ある。ところが、復刻版やマンガ文庫でもなかなかない作品もある。『荒野の少年イサム』もそんな作品の一つだった。


『荒野の少年イサム』。一九七一年から週刊少年ジャンプに連載されたフロンティア時代のアメリカを舞台にしたマンガである。かつての男の子は、戦車や戦艦、戦闘機、銃といったものに夢中になったもので、けっこう西部劇なども好んで見ていた。ジョン・ウェインや、ジュリアーノ・ジェンマといったアメリカやイタリアの映画がテレビで放映される日にはテレビの前に陣取っていたものである。けれども、主人公は白人の若者か大人で日本人はもちろん、子どものガンマンなど登場することはなかった。ところが、日本人の少年ガンマン(正確には日本人の父を持つ日系の少年)が主人公として活躍するマンガの連載がジャンプで始まった。男の子たちは大喜びでジャンプを回し読みしたものだった。


イサムの父は日本の武士、渡勝之進、母はネイティブ・アメリカン(当時はインディアンと呼んでいたし、復刻された本にもそう書かれてある。)の女性である。勝之進は赤ん坊のイサムを連れて親子三人で旅をしていたが、途中で母は病で亡くなってしまう。さらにイサムは、暴走した駅馬車のせいで父とも離れ離れになってしまうのだが、たまたまロバが行き着いたロッテン・キャンプという小さな町で砂金採りの男たちに大切に育てられる。ところが、ロッテン・キャンプの町が洪水によって壊滅し、イサムはウインゲート一家というアウトロー(賞金付のお尋ね者)に拾われる。ウインゲート一家の三人は、イサムに悪事の手伝いをさせるために銃と馬を仕込む。その結果、イサムは獣と馬に関しては超一流の腕を持つことになる。


誘拐、馬泥棒、駅馬車強盗、開拓民の一家の惨殺など、ありとあらゆる悪事を重ねるウインゲート一家に育てられながら、イサムの心が悪に染まることはなかった。ロッテン・キャンプでの愛情に満ちた日々が、イサムが悪の道に進むことを押しとどめたのだろうか。イサムは、ウインゲートたちが留守にしている間、孤児院を襲った無法者ロス・パブロ一味の魔手から子どもたちを救ったり、暴走する馬車を命がけで止めて、クララとロバートという姉弟を救ったりする。その行動が、ウインゲート一家の手先として逮捕されたイサムの命を救い、クララの父が経営するモリソン牧場でカウボーイとして働くことにつながっていく。


この『荒野の少年イサム』の物語は、当然、拳銃アクションが魅力なのだが、ロッテン・キャンプの話や、お互いの素性を知らぬまま父が息子に柔道を教える場面、イサムのカウボーイとしての生活とクララとの交流など、ほのぼのとした温かさを感じる場面も多い。逆に、そこを丁寧に描いているがゆえに、派手な拳銃アクションのシーンは少ないと言えるかもしれない。けれども、拳銃アクション以外のシーンの存在が物語の深みをつくっている。


ウインゲート一家を母の敵と付け狙う黒人のアウトロー、ビッグ・ストーンの存在などもその魅力と深みの源泉の一つだろう。父と離れ離れになってしまった赤ん坊のイサムを最初に助けたのがビッグ・ストーンであり、コマンチ族の駅馬車中継所襲撃の場面でもイサムと共に戦い、イサムが絶体絶命のピンチに陥った時も、ビッグ・ストーンの銃がイサムの命を救っている。イサムは、ビッグ・ストーンを兄のように慕いながらも、ビッグ・ストーンと二度戦い、ウインゲート一家の人質となったクララの安全のためにビッグ・ストーンを殺してしまう。人種差別さえなかったらアウトローにはならなかったかも知れない優しさを持った黒人ガンマン。大人の目で読み直すと、イサム以上にビッグ・ストーンは心を動かされる存在である。


まずは、懐かしさゆえに手に取った『荒野の少年イサム』。けれども、通して読み直してみると、子どもの頃には気付かなかった新しい魅力もたくさん発見できた。時間のある時に、またゆっくりと、そして何度でも読み直してみようと思う。

  〔完〕

  

 【TEXT】

  『荒野の少年イサム』

1 ~ 5

     原作  山川惣治

     漫画  川崎のぼる

    二〇一三年 

    集英社復刻版コミックス

ISBN978-4-08-780694-6

ISBN978-4-08-780695-3

ISBN978-4-08-780696-0

ISBN978-4-08-780697-7

ISBN978-4-08-780698-4

 

 

 

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『ビブリア古書堂の事件手帳』《三上延/交田稜》を読む

ラックからのミニ評論30

『ビブリア古書堂の事件手帳』 
《三上延/交田稜》を読む

 

原作の小説は、メディアワークス文庫から出版され、本屋大賞にもノミネートされて話題になり、現在(二〇一三年夏)四巻まで出版されている。角川書店の雑誌にもナカノの漫画で連載され、そちらの方も三巻まで出ている。また、剛力彩芽の主演でテレビ・ドラマ化もされたが、こちらは基本設定の重要部分を大幅に変更した挙句、脚本の方もイマイチで、出演者たちがかわいそうなほどの出来だったため、視聴率も低迷し、散々な評価だったようである。


さて、マンガの方はテレビ・ドラマとは異なり、設定もストリー展開も原作に忠実で、先に原作小説を読んでいてもマンガとして安心して楽しむことができる。元の掲載雑誌の読者の好みを意識してか、角川のナカノの絵は少女マンガっぽいカワイイ絵になっているが、講談社の交田の方は幾分リアルで大人っぽい絵柄である。


メインの登場人物は、ビブリア古書堂の店主・篠川栞子(しのかわしおりこ)

と亡くなった祖母の本がきっかけで栞子と出会いビブリア古書堂で働くことになった五浦大輔(だいすけ)。古書に関わる様々な謎を2人が解いていく話である。


ただ、二人はそれぞれに問題を抱えている。栞子は対人恐怖症に近いほど他者との会話を苦手としており、それに加えて彼女の持つ古書を狙う男に石段から突き落とされ、歩行が不自由(完治しないかもしれない)である。大輔は小さい頃に祖母にひどく叱られた事件をきっかけに、本を読めない体質(本が嫌いなわけではないのだが)になってしまっている。この二人のコンビが、古書に関わる難解な謎に挑み、次々とそれを解決していくのである。


謎を解決するという点ではミステリーということになるのだろうが、殺人などには至らず、本好きな読者にはなかなか興味をそそられる。私なども、空き時間にパラパラと原作小説を読んでしまったために、当時出ていた三巻をすべてその日のうちに購入し、一気に読んでしまった口である。


また私は、不登校・ひきこもりの問題と一〇年以上関わっているが、この本を読んでいると、対人関係が不器用でも、周囲の適切なサポートによってそれなりに生きていけるし、場合によっては素晴らしい結果を生み出すことも可能となるのではないか……と思えてくる。栞子と大輔は、お互いに欠けている部分を補い合って協力しながら本の謎に挑み、それを次々と解決していくのである。


それから、一癖も二癖もありそうな登場人物の存在も面白い。姉とはうってかわっておしゃべりで誰とでもすぐ仲良くなる栞子の妹
香(あやか)、ホームレスだが古書の転売をして真面目に生活している志田、気が強いがとても優しい一面も持つ高校生・小菅奈緒、刑務所にいた過去を持つ真面目な男坂口昌志とその妻しのぶ…。いずれも、少しばかり癖はあるが、愛すべきキャラクターたちである。こうした基本については二つのマンガは忠実に原作小説を踏襲しているが、交田版の方が文香の存在感が強く出ていて、しのぶが美人に描かれている感じがする。どちらの絵柄を好むかは、読む人の自由ではあるが。


さて、交田版のマンガでは、、二巻までで『それから』『落穂拾ひ』『論理学入門』の三つのエピソードを終えて太宰治の『晩年』のエピソードのプロローグに入ったところまでが収録されている。もちろん原作小説を先に読んでいれば、その後のストリーの展開は良く知っているが、栞子と大輔のケンカもあり、それも含めて二人の絆が一層深まっていく重要なエピソードである。二巻の案内に寄れば、三巻は二〇一三年秋に発行が予定されている。交田稜がこのエピソードを漫画家としてどのように描くのかが、とても楽しみである。

  〔完〕

     

 【TEXT】

 

  『ビブリア古書堂の事件手帳』

 

     原作  三上 延

     漫画  交田 稜

    二〇一一~一二年 

    講談社アフタヌーンKC

ISBN978-4-06-387866-0

ISBN978-4-06-387901-8

 

 

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『日本を滅ぼす消費税増税』 《菊池英博》を読む

ラックからのミニ評論29

 

『日本を滅ぼす消費税増税』 《菊池英博》を読む
 

 

財務官僚の操り人形と化した民主党野田政権はマニフェストでは「消費税を上げない」としていたにも関わらずにその約束をあっさり破棄して自民党や公明党と談合して消費税増税法案を可決した。二〇一二年一二月の衆議院選挙において民主党は大敗したが、自民党安倍政権は消費税増税の撤廃は考えていないようである。だが、多少なりともマクロ経済を理解していれば、今の日本の状況での消費税増税はありえない。「増税」の目的は「財政再建」だということだが、経済史的に見てもデブレ・不況下での増税は逆に税収減を招いている。したがって、本当に「財政再建」を考えるのであれば一般の労働者・国民の可処分所得を増やすことによって内需を活性化することがその処方箋となる。その意味で、マスコミから徹底的にたたかれている小沢一郎議員や河村名古屋市長の主張の方がマクロ経済的には間違っていない……と考えられるのである。

 
にも関わらず、NHKをはじめとするマスコミの報道はそれについて口をつぐんだままである。家計の常識=ミクロ経済の視点からすれば借金がかさんで収入が上がらなければ支出を可能な限り削減する、という判断は正しい。けれども、皆が支出を削減し続ければ、内需は縮小を続けて不況は深刻化してしまう。ミクロ経済の実感は、マクロ経済の常識とは正反対となる可能性はあり得るのだ。財務官僚やマスコミはこの実感のズレを悪用して国民に嘘をつき、情報操作によって「増税は必要かもしれない」という空気を作ろうとしている。昭和恐慌の際の金解禁の失敗や世界恐慌時のニュー・ディール政策前の緊縮財政の失敗の歴史に学べば、小泉「改革」以降の十五年にも及ぶ経済・財政政策の失敗は明らかであり、デフレ政策の継続と増税は日本の経済に致命傷を与えかねないのである。

 
この本は、そうしたことを公表されているデータや資料を基にして、多くの表やグラフや図も入れながら、わかりやすく説明してくれている。そればかりか、「財政危機」の主張の【からくり】をも暴き出し、政府や財務官僚の主張の矛盾や嘘をも厳しく指摘する。政府・財務省の「財政危機」の根拠としている「債務」は借入総額である「粗債務」だけで、OECDや他の国々が一般的に準拠し、公表もしている「純債務」…借入総額から保有する金融資産を控除したもの…は公表こそしていても、故意に説明から省き続けている。そして、大マスコミもそれを追求しないばかりが、こうした情報操作に手を貸している実態も指摘している。著者は純債務も含めた分析によって、日本は世界一の対外純債権国であることや、財務省自体も対外国向けにはそのような主張を繰り返していること、そうした点から日本の本当の意味での【債務】はマスコミ報道の半分ほどに過ぎず、今の日本が「財政危機」であるとする財務省やマスコミの国民向けの報道はおかしいということも述べている。

確かに、一般企業の活動で考えても、融資などで借り入れているお金がたくさんあっても、それなりに資産や預金などがある程度きちんとあれば、誰もその企業は破たん寸前だとは見ないだろう。その意味で、故意に説明を省き、国民を日本が「財政危機」であると錯覚させて欺き、社会保障や教育費用の削減と増税を画策する政府・財務省とマスコミの動きは犯罪的といえるだろう。そして、その結果としてデフレと不況を長引かせ、一般国民の生活を破壊し続けているのだとすれば、国民の奉仕者としての義務に反する違憲行為でもある。

 

本当に財政再建が必要なら、デフレ不況を克服し、国民が安心して働き、生活できるように低所得層まで十分にお金を回す必要がある。それによって所得税や法人税も自然に増加し、税収自体も回復する。それに逆行するような売国・反国民政策を決して許してはいけない。

  〔完〕

 

 

 【TEXT】

 

 『日本を滅ぼす消費税増税』

 

        菊池 英博  著

 

    二〇一二年 

 

     講談社現代新書

 

 

 

ISBN978-4-06-288181-4

 

 

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『経営者の大罪』《和田秀樹》を読む

ラックからのミニ評論28
 

 

 『経営者の大罪』 《和田秀樹》を読む

 

 
小泉改革以降、新自由主義の風潮が日本を席巻し、一般の国民にとって「失われた三十年」が今も続いている。労働者の賃金はほとんど上がらず、「輸出の競争力を上げるためのコストカット、そのための人件費の削減」が当たり前のように言われ、毎年の自殺者数もずっと三万人を超えた減少する兆しは見えない。ある政治家の「国民の生活が第一」という言葉は、ほとんどその通りに受け止められることはなく「人気取り」だの「バラマキ」だなどと異常なほどにマスコミに叩かれ続けている。だが、「国民の生活が第一」というのは、まともに考えれば大切なことだし、日本の現状からしても最優先に取り組まなければならない政治課題の一つである。それにイチャモンをつけ対案も出さずにふんぞり返っているマスコミの姿勢や与野党の政治家たちの現状は、マスコミや政治の劣化を雄弁に物語っている。
 

 
 


だが、そうしたマスコミや政治の腐敗を生みだした原因の一つに、財界に集う経営者たちの劣化や能力の低下がある……という告発をこの本はしているのである。

 

著者は、受験勉強のやり方などの著作で有名になった和田秀樹だが、アメリカのコフートの流れを組む精神科医で、私自身は心理学やカウンセリングの面から注目していた人物である。ただ、小泉政権以降の自民党、自公連立政権や官僚、そして菅前総理や野田政権が進めてきた新自由主義の政策は、アメリカの金持や多国籍企業の利益の向上だけを目的としており、アメリカ国民はもちろん、日本の国民にとっても利益にならないものであるばかりか、かえって一般の人々の生活を破壊し、日本の経済活動にとってもマイナスであることを看破している。

 

そして、日本の経営者たちがそれを認識せずに、無批判に新自由主義を受け入れたことで内需が低迷し、会社・企業に対する労働者の信頼を失わせ、技術を流出させ、人々のつながりを切ってしまうことにつながった……と述べている。


私も、何度かブログで書いているが、財政政策を含め様々な形で低所得層にお金を回すようにすれば、当然、多くの人々がお金を使うので内需は拡大するし、内需の拡大は中小企業の仕事の拡大につながる。それは、所得税や法人税の税収増にもつながるので、政府の財政状況を考えても必要な政策だと思われる。だが、何故か野田政権も財務官僚もそのことが理解できないようだ。消費税を上げれば、逆に、低所得者層の可処分所得は減少し、中小企業の倒産も懸念される。結果として、所得税や法人税は落ち込み、失業給付や生活保護などの社会保障関係の支出が増加してしまい、財政再建などできなくなってしまうのである。だが、新自由主義にとっては、所得格差が増大した分、金持や多国籍大企業の一部にさらに利益が集まってくる。だが、その「多国籍企業」が日本のそれであるとは限らないのは、ソニーやシャープ、パナソニックなどの苦闘を見れば明らかである。


そのことを少し考えるだけで、新自由主義の正体はわかる。財界・日本の経営者たちにその知恵があれば、安易に新自由主義を盲信することなどありえない。適正な関税をとって「自由貿易」という名の押し売りから手を引き、内需を拡大して安定した中間層を再び作り上げることで日本の経済発展の荒田の可能性も見えてくるからである。


だからこそ、この著者は経営者たちの無思慮を告発する。経営者たちが熟考して新自由
主義のゴマカシを見抜き、野田民主党や自民・公明などの増税・新自由主義同盟に圧力をかければ、野田政権の対米売国政策は後退せざるを得ないからである。自らをきちんと洞察して間違いに気づくこと。そして、間違いに気づいたら早く改める勇気を持つことが大切である。

  〔完〕

 

                    
 
【TEXT】

 

 

  『経営者の大罪』

 

        和田 秀樹  著

    二〇一二年 

       祥伝社新書

 

ISBN978-4-396-11276-9

 

 

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