カテゴリー「マドンナ・えっせい」の30件の記事

文芸同人誌「青い鳥」に30回にわたって連載したエッセイ集

夢への道標…オードリー・ヘプバーンの輝き

マドンナ・えっせい30

 

夢への道標

 

…オードリー・ヘプバーンの輝き

 

 

激動する時代の中で、あるいは長い時を隔ててもその輝きを失わないものがある。「モナ・リザ」、『ロミオとジュリエット』、『源氏物語』、ビートルズ……。私の意識の中では『ローマの休日』という映画もそうした存在の1つである。『ローマの休日』と聞けば、ほとんどの人があのアン王女の愛らしく清楚で気品のある笑顔をイメージするだろう。この「マドンナ・えっせい」の最後のページは、アン王女を演じたオードリー・ヘプバーンを鍵にして文章を綴っていきたい。

 

存在自体の輝き。TVや映画のスター、あるいは歌手を見てそれを感じる人は少なくない。しかし、最近の日本を見渡してみると、オードリーほど長く、またオードリーほど気品に満ちた存在感を感じられる歌手やスターはみられない。もちろん、一瞬、あるいは一定の時期に渡って輝く存在はみられても、その持続は難しいのである。

 

その理由の1つに、気品の欠如がある。お金や生まれではなく、背後に存在そのものの重みを感じさせる何か。それは、人生の闇を真摯に見つめながらも、欲望に流されず、そして希望を捨てずに生き続ける姿勢から滲み出して来るものではないだろうか。戦争の影、父親との別れ、結婚の光と闇……。オードリー・ヘプバーンの人生にも、様々な幸福と不幸がちりばめられていただろう。しかし、彼女はスクリーンではいつも輝き続けた。いや、彼女がこの世を去った今も、その作品は輝き続けているのである。

 

今、日本は不況の中に喘いでいる。中高年男性の自殺は急増し、その数は、交通事故死のそれを上回っているという。子どもたちは将来に対する夢を失い、空ろな心をモノとイメージの消費で埋めながらもがいている。世界恐慌の始まった1929年、ベルギーに生まれたオードリーは、当然、あの第二次世界大戦を体験している世代であり、戦争が彼女と父親を引き裂いていくのだが、その不幸と、今の日本の不幸とはどちらが深いだろうか。それを考えた時、オードリーのあの輝きには意味深いものを感じてしまう。

 

いくつか、オードリーの作品を挙げてみよう。『ローマの休日』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディー』……。それらを思い浮かべてみれば、多くの作品が「夢」であることが分かる。現実の生活はともかく、彼女は、多くのスタッフとともに真摯な姿勢で「夢」を作り続けた。そしてそれは、映画を見る多くの人々の夢や希望を紡ぎ、心を満たしていった。スクリーン上の彼女は、プロとして自らの内にある影を微塵も見せず、輝き続けた。彼女の気品は、そうした姿勢やそれを支えた彼女自身の芯の強さの中から生まれたのではないかと思われる。

 

翻って、私達自身を眺めてみよう。

 

人間は、ある意味では、1人ひとりが様々な不幸を背負っている。しかし、そうした現実を見つめ、立ち向かう強さも、人間は持ち得ている。その一方で、それを妨げる弱さもまた、人間は自身の心の内に持っている。例えば、身勝手な欲望や甘えがそれである。暴走する欲望や甘えは人との関係をぶち壊し、自分自身の生活を荒らし、どれほどモノで埋めても埋めることのできない空洞を心の内に作り出す。その空洞をモノや快楽でごまかそうとするからこそ、私達は、夢や希望を見失ってしまうのかも知れない。

 

構造改革と財政再建を旗印に小泉内閣が誕生して半年、僅かながら持っていた期待はすでに失望へと変わっている。強者が自らの利権を守ることに汲々とし、結果として弱者により多くの痛みを押しつけながら、その現実に目を向けず保身と責任回避に走るだけの政治姿勢に全く変化が見られないからだ。ゼロ金利政策や、労働者の首を切り中小企業をつぶすような「リストラ」を続けても経済の回復は見込めない。普通の人々が安心してお金を使える気持ちにならない限り消費は伸びず、景気は上向くことはないからである。

 

終身雇用と年功序列というセーフティ・ネットが崩壊する中で、国民の負担のみを増やし将来を不安にさせるような年金制度の改悪と不完全で利用しにくい介護保険の導入が進む。いずれも、未来のビジョンを失わせ、夢を奪ってしまう悪政である。

 

その根底には、自分自身の一握りの「身内」の利益のみを優先し、現実から目を逸らして身勝手な言動を続ける指導者たちの存在がある。もちろん、彼等を選んだ国民1人ひとりの責任もあるのだか。

 

こうした現実を打開するためには、「夢」の力が必要である。自分の欲望や甘えに流されずに、辛さや苦しみの現実を見つめ、その上に立って自分とより多くの人々の幸福のために何ができるのか。狭い視野で眺めていると見えないことが、広い視野で見つめ直すことで見えてくる。私のためでなく、私と家族のため……。家族や親戚のためではなく、町や国のため……。そして単に日本という国のためではなく、アジアやアフリカを含めた多くの人々のために……。そうした視点を持てば、身勝手な欲望から自由になり、埋めることのできない心の空洞も小さくなって「未来へのビジョン」=「夢」が見えてくる。

 

晩年、ユニセフの大使として活動したオードリー……。私達も、そんな「夢」を持てるような生き方をしていきたいものである。

                                    〔完〕

                      02年1月

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自立という幻想…キャリスタ・フロックハートの虚像

マドンナ・えっせい29

 

自立という幻想

 

…キャリスタ・フロックハートの虚像

 

 

キャリスタ・フロックハート。名前どころか存在すら知らなかったその女優を意識し始めたのは、「アリー MY LOVE」というアメリカ発のTVドラマの第2期の放映が終わる頃だった。

 

レンタル産業の隆盛は、見逃したドラマも少し時間をおきさえすれば簡単に目にすることができる状況を作っている。そんな現実に乗って早速シリーズのレンタルを始めたが、仕事が少し暇になったことも重なって、一気に2期分を見ることになった。早い話がハマッてしまったと言うことである。

 

その後、「ジェーンに夢中」の主演や「真夏の夜の夢」のヘレナ役を演じていることも知り、それらも続けて借りてみた。「アリー MY LOVE」における新米の女性弁護士アリー役が非常に魅力的だったので、そのイメージにひきずられないかと心配だったが、キャリスタは、それぞれをアリーとは別のイメージで演じていたので、その心配は杞憂に終わった。ただ、作品そのものについての評価は、やはり「アリー MY LOVE」が一番面白かったように思われる。

 

その「アリー MY LOVE」だが、20015月現在、日本では第3期のTV放映が終わり、レンタル・ビデオの店頭に第3期のシリーズがならび始めている。ドラマ自体の面白さについては、ここではそれ程細かく触れようとは思わないが、その背景に潜む様々なものについては、現代アメリカの、あるいは現代日本の抱える問題とも微妙にアクセスする部分がある。

 

このドラマにおけるアリーの設定は、新米の女性弁護士。セクシャル・ハラスメントで職場を辞めたアリーは、新しい職場(法律事務所)で彼女の初恋の男性ビリーと再会する。彼はすでにジョージアという別の女性と結婚していて、やがて彼女も同じ法律事務所で弁護士として働くことになるのだが……。

 

様々な事件とそれに関わる法廷でのやりとりを間にはさみながら、恋やセックス、キャリアといったものに対するアリーの言動、そして様々な人間関係を折り込みながらドラマは進む。アリーの思いや幻想を派手なSFXで描くのでそこの部分も楽しめるが、アメリカという訴訟社会の持つ矛盾が巻き起こす事件への主人公アリーの対応には非常に興味深いものがある。また、欲望と感情と仕事に揺れ動く心の問題については、現代の日本とオーバー・ラップしてくる部分もある。それが女性の自立の問題である。

 

「自立」とは何か。その問いについて、社会的、政治的、経済的、心理的といった様々なアプローチの仕方があるが、自身の意志で行動を決定できる「自由」が、そのポイントとなる。だが、「自由」と言っても、職場の関係、友人との関係などを厳密に考えていくと、アメリカであっても日本であっても、それほど好き勝手にできないという事情は同じである。そんな中で自分の意志をどこまで貫こうとするのかが問題となるが、欧米文化圏は日本よりも「自分の意志」が大切だと見なされる傾向が強いように思われる。しかし、敢えてそれを貫くことでより深く傷つく場合もどうやら少なくはなさそうである。

 

では、傷つけばどうするのか。「アリー MY LOVE」では何人かの登場人物がカウンセラーから精神分析を受けている。が、その一方で恋人や家族との関係の中で安らぎを欲しているようなところも透けて見えてくる。だがそれは、視点をずらせば、「自立」の影である「依存」と見なすこともできるようにも思われる。いわば、「自立」を必死に追い求める裏で無意識のうちに依存できる関係を望んでいるのである。

 

だが、「自立」と「依存」が裏と表の関係にあるとするのであれば、「依存」をよくないこととして退けることは、返って「自立」を不安定なものにしてしまう危険性をはらんでいる。依存しすぎて相手にしがみついてはなれないというのであれば問題もあろうが、「自立」のためには困った時や辛い時に安心して「依存」できる関係を持つことでより強くしなやかな「自立」を達成できるように思われる。

 

思うに、人間というものは、それほど強い存在とは言えないのではなかろうか。その前提に立つと、「自立」が本当に可能か、あるいは「自立」そのものが幻想に過ぎないのではないかとさえ考えてしまうことがある。

 

特に日本の社会では、旧来から自己主張を押さえ個性化することを嫌う風潮があり、その場の雰囲気の調和を至上のものとして争いを避ける傾向があった。その中で個々の構成員はその場の集団に依存して心理的にも関係としても安定していた。

 

もちろん、その欠点もあったが、近年の資本主義社会の爛熟によって関係を分断された状況の中で、人々は安心して依存できる場を喪失し、自立できない弱さを抱えたまま右往左往している。今、必要なのは、自分自身と周囲の関係を見つめ直し、そこに安心して自分でいられる「場」を作ることなのかも知れない。

                                    〔完〕

                        01年5月

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別視点からの風景…新井素子のチャンネル

マドンナ・えっせい28

 

別視点からの風景

 

…新井素子のチャンネル

 

 

誰もいない宇宙空港に2匹のホタルが飛び交う。その名はチグリスとユーフラテス……。例えば、そんなイメージの断片から彼女の小説は生まれる。大抵の人ならば「ああ、きれいだな」だけで終わってしまうシーンに過ぎないが、このイメージが1200枚を遥かに越える小説として作品化される。1999年に発行された小説『チグリスとユーフラテス』(集英社)がそれである。

 

空港にホタルが飛び交うシーンが、植民地惑星に残された最後の「子ども」の話となり、子どもを生むということ、生きることの意味を問い掛ける連作長編に変貌する。その後書きで、彼女自身は予定よりも長くなり過ぎてしまった事を謝罪(言い訳)風に書いているが、作者の意図を越えるイメージの拡がりは、創作をする者の1人として非常に興味深いものがある。

 

が、それ以上に楽しめるのは、日常とは微妙に違う視点から見せてくれる物事の奥行きである。例えば、1985年に出版された『ナイト・フォーク』(集英社・コバルト文庫)で、美人のヒロインが「女は顔でも心でもない、存在するだけでいい」と主張する。美人が「女は顔じゃない」と主張するだけなら嫌味だが、その後の展開が「男は強くなければ子孫を残せないが、女は発情すれば子どもが生める。だから存在するだけでいい」などと続くと、ユーモアの中に様々なものを読み取ることが可能になる。

 

1990年に出された『今はもういないあたしへ…』(ハヤカワ文庫)では、交通事故が夢を媒介にしてクローン技術や死後の世界の問題へとつながっていく。日常から出発をしながらも、その背景を読み込んでいくと様々な「深み」へとリンクできる楽しさと怖さが彼女の小説には潜んでいる。

 

が、それができるのは日常から微妙にずれた視点を持ち、そこを出発点にしながら論、あるいはストリーを展開していくからである。

 

人が生きていくということは、生活を積み重ねていく事である。その11秒に敏感に反応していては疲れきってしまうが、だからと言って繰り返しの毎日を重ねていれば幸福になれるという訳ではない。日常と非日常、敏感と鈍感のバランスを上手に取りながら日々を重ねていくことで豊かな生き方ができると言えるだろう。

 

しかし、そのバランスが難しい。特に忙しさに埋没してしまうと、繊細な感受性を失って変化を嫌い、自分の小さな現実の中に閉じこもって外へ目を向けようとしなくなる場合がある。そうなると視野が狭くなり、必要な事や大切な事までも見えなくなってしまう。少し視点をずらし、視野を広げる努力をするだけでまったく新しい道が開ける可能性があるにも関わらず、その変化を恐れるあまり問題から目を背けて先送りをし、その結果、返って自分自身を悪い方へ追い込んでしまうのである。

 

その顕著な事例が、この世紀末日本の政治の世界にゴロゴロ転がっている。政治権力を維持することだけが目的となっている売国奴たちが、世界の国々との交渉に耐え得る力量を持った指導者を選ばずに、自分達が操りやすい無能なリーダーを表面に立てて日本の国益を損ね、国民によけいな負担を強いて、結果として自らの首をも締めていることにも気付かないまま愚かな行動を繰り返している。それについての具体的な事例は、あまりにも多すぎるためいくつかにしぼる事など不可能なことは、誰もが承知の事と思う。

 

必要なのは変化を受け入れる姿勢と覚悟である。そして、そのための勇気さえあれば、意外と事態は好転してくる場合は少なくない。覚悟を決めて決断すれば、その際の変化も思いの外ソフトであったりするのである。これは大きくは政治や経済、産業の世界でもそうであり、小さくは日常生活や個人のレベルでも同じであると言えよう。

 

というよりも、日常の中に小さな変化を見つける視点を持っていれば、早く気付き、決断して、最小限のリスクで対応できるようになる。逆に、変化を恐れて現実から目を背け、決断を先送りすればするほど、自らばかりでなく周囲までも巻き込んで、より事態を悪化させてしまうのである。

 

それを考えると、視点というものの重要性が浮かび上がってくる。当たり前と思って見過ごしている日常の中の出来事やものごとをもう一度良く見直してみたり、少し見る角度を変えてみたりすると、結構、新しい発見や楽しみが出てくる。それを出発点にして、自分から変化への第1歩を踏み出せば、退屈な日常や悲惨な現実から脱出できる可能性が生まれる。

 

もちろん、誰もが簡単にその第1歩を踏み出せるものではないが、あらゆる存在が常に同じではいられない以上、変化を恐れていては返って周囲の変化に飲み込まれ、自分自身や幸福を失ってしまう事にもなりかねない。変化を見逃さない鋭い視点と、変化を恐れず先に進もうとする向上心と決断力を持ち続けたいものである。

                                   〔完〕

                     200012

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さらりとした表現…俵万智のアクセス

マドンナ・えっせい27

 

さらりとした表現

 

…俵万智のアクセス

 

 

「この味がいいね」と君が言ったから76日はサラダ記念日

 

 

さらりとした軽さが魅力のこの短歌から名前をとった本『サラダ記念日』が世に出てから20年余り、俵万智は現代日本の文学の世界をリードする歌人の1人として知られている。最近の仕事では、与謝野晶子の『みだれ髪』を現代語にアレンジした『チョコレート語訳/みだれ髪』の第1集と第2集なども店頭や図書館で見かける注目の著作である。

 

万葉集はともかく、平安期以降近現代まで、教科書や百人一首に登場するような作品以外は好んで読もうとはしない短歌だが、俵万智の作品だけは結構読んでいる。万葉集の素朴な印象と通じるものを持つがもっと軽やかなライト感覚が、彼女の作品に心引かれる理由ではないかと自分では思っている。

 

が、実はこの軽やかなライト感覚、よく考えてみれば意外に曲者である。それだけの重さを言葉に込められないというべきか、あるいは思いや感情の重さを込めた言葉に読む側が耐えられないというべきか、そうした世相を反映したものと「読む」ことも不可能ではないからである。

 

最近の日本の音楽風景を見て感じることだが、一度聞いただけで強い印象を受け、深く心に染み込んでくるような歌や音楽と出会うことが少ない。演奏の技術やダンスなどは昔と比べて格段に平均レベルが上がっていると思うのだが、逆にそれらの悪条件をものともせずに心に飛び込んでくる「歌」そのものや「音楽」そのものがないのである。

 

ある意味では、それは仕方のない事かも知れない。昔は、悪い条件の中で、なおかつ勝負をかけるためには「歌」なり「音楽」なりにそのパワーのすべてを注ぎ込む必要があったのに対し、現在の恵まれた条件からすれば「歌」や「音楽」に+αの映像やダンスなどがあり、そのトータルで勝負ができる。

 

当然、「歌」や「音楽」オンリーの比重は相対的に小さくなるし、「歌」や「音楽」だけで勝負する必要はなくなる。そこそこの「歌」や「音楽」を様々な+αとうまく組み合わせ良いものを作ろうとする事自体は悪い事ではないし、そうした形で多くのものを短いサイクルで動かしていけば、それなりに商売になる時代が「現代」であるとも言える。

 

そんな時代の中にあって、それのみで心にアクセスしてくる「歌」や「音楽」を探すのは難しい。だから、次善のやり方として、流行のものを身にまとい、古くなったらポイして次々に新しいものに代えていくことになる。CDなども、買ったものを大切にコレクションするのではなく、レンタルで済ますか、新作を買っても古くなれば中古市場に売って次の新しいものを求める資金の一部にするのである。

 

それは、ある意味では合理的なやり方だと思うし、感覚としてもその軽やかさは魅力を感じる部分もある。が、世界は「軽さ」だけでは成立しないし、「非合理」の闇も含めて人は生きている以上、それで済ませてしまってはいけないという思いが心にはある。今の社会が置き去りにしようとしているものの中に大切な「もの」が存在しているのである。

 

『サラダ記念日』でスタートしながら、長々と歌や音楽について述べてきたが、実は、この問題は俵万智のアクセスの仕方とも共通点を持つ。彼女は、写真や絵画と短歌を合わせた本を何冊も出版しているからである。

 

例えば、『風になる』『そこまでの空』『花うらない』などの本はいわさきちひろや安野光雅、おおた慶文などの絵と彼女の短歌を並べているし、『とれたての短歌です』など浅井慎平の写真と並べてある本などもある。

 

違うジャンルの芸術作品と並べた上でのハーモニーやミス・マッチを楽しむ醍醐味は何とも言えないし、彼女自身のチャレンジ精神にも魅力を感じる。けれど、逆に「自分の言葉」だけで勝負しないことに対する「ずるさ」を感じないでもない。

 

ある意味では、『チョコレート語訳/みだれ髪』も同じかも知れない。

 

個人的には、確かに『みだれ髪』だけを読もうとする気はまず起きなかっただろうし、与謝野晶子の「作品」と並べられた俵万智の「訳」の生むハーモニーの面白さは、短歌を何倍も楽しませてくれる。しかし、与謝野晶子のねっとりとした思いや感情の持つ迫力が、訳された短歌のそれでは薄められてしまう。

 

もちろん、それが「現代的」なのだし、2人の短歌の間にある緊張感も旧来の「現代語訳」とは異なり、読み応えを感じる本でもある。しかし、そうした本そのものの持つ面白さとは別に、「現代的」であることの奥に流れる闇の部分を感じさせられる2冊になったというのが正直な読後感である。

 

現代の日本に生きる事は、多くの難しい問題を抱えている。私たちのように創作を続ける立場からすれば、「軽さ」とのアクセスの仕方と「重さ」の処理は、日毎に難しさを増す問題の1つかもしれない。

                                   〔完〕

                      2000年6月

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自分という仮面…香山リカの現実

マドンナ・えっせい26

 

自分という仮面

 

…香山リカの現実

 

 

中学校で先生をしていた頃、教科によって子どもたちの表情が異なっていることに気がついた。得意な教科や好きな教科、あるいは好きな先生の教科には、不機嫌や不満といったマイナスのものも含めて生き生きとした表情をするが、そうでない場合は、極端な場合、それこそ無表情といっても言い過ぎではないような顔が並ぶ。

 

「学校教師的感覚」からすれば「とんでもない!」ということになりそうだが、よく考えてみると、不思議でも何でもない。注意深く観察していれば、大人でも、時として「適切でない表情」が表に出る場面は意外と少なくないことがわかる。本人が意識する、しないに関わらず、人は、時と場合によって、実に様々な表情を見せるのである。

 

が、現代の社会において、「素直な自分」を出すことの出来る場は、実は、必ずしも多くはない。大人ばかりでなく子どもたちすらも、「自分」を守るために様々な「仮面」を身に付けざるを得ない。神戸や黒磯市の中学生の事件、あるいはオウム真理教の一連の事件なども、ある意味では、この自己防衛の「仮面」の崩壊によって爆発したものと考えられなくもない。そしてそれは「特殊な事例」ではなく、現代を生きる人々が持つ心の闇と深く関わっているために、どこで起きても不思議ではないと言える種類のものである。今の日本の現実は、そのような状況なのである。

 

このように考えると、「仮面」というものが恐ろしくさえ思えてくる。しかし、上手に付き合っていくことが出来れば、「仮面」は、自分自身はもちろんのこと、その周囲にも豊かな恵みを与えてくれる。そうした上手な「仮面」の使い手の一人と考えられるのは、臨床の仕事をするかたわら、リカちゃん人形の名前をペン・ネームにして様々な著作を世に出している香山リカである。

 

『リカちゃんコンプレックス』『リカちゃんのサイコのお部屋』『テレビゲームと癒し』『心はどこへ行こうとしているか』『〈じぶん〉を愛するということ』『眠れぬ森の美女たち』……。部屋の本棚をざっと見渡しただけでも、これだけの著作が「香山リカ」という「仮面」の下に出版されているのが目に入る。基本的には、臨床の現場にも立つ精神科医が、現場から一線を画した位置でサブ・カルチャーを中心に心のままに手軽な文章をつづっているというスタンスである。

 

が、このスタンスがまた、カルい(と言うよりも真実の重さに耐える精神的な強さを喪失しつつある)時代の中で、絶妙の視点と、心の問題に対する繊細かつ微妙なアクセスの文章を提供してくれている。それが、読者としてついつい彼女に接近してしまう最大の理由である。

 

けれど、「香山リカ」は、本人にとってどのような意味を持つのか。例えば、『〈じぶん〉を愛するということ』のプロローグで、「書く精神科医」(サロンの文化人)と「診る精神科医」(町のお医者さん)のギャップが彼女にとって「どうしても必要だった」ということを述べている。

 

こうした感覚は、学校の先生をしていた頃の自分の精神状態と、塾を始めると同時に教育学研究と文芸創作活動をも本格的にスタートさせてからそれとの比較において、私自身としては非常に納得・共感できるものがある。

 

塾で子どもたちを教える「私」、三重フレネ研究会での「私」、フレネ教育全国研究会での「私」、詩あるいは童話や小説の創作者としての「私」、そして「青い鳥」の編集者としての「私」……。それぞれの表情が異なっていることは自分でも感じているが、そのすべてが私を作る大切な構成要素であり、それを無理に排除したり無視したりすれば、簡単に自分という存在が壊れてしまう。私自身、そのような実感を持っているのである。

 

人間には、様々な「顔」がある。たとえそれが「本当の自分」の上につけられた「仮面」に過ぎないとしても、その奥深くに自分自身がいるかどうかが、結局はその「仮面」を納得して被り続けられるか否かということと深く関わっているのではないだろうか。

 

例えば、私自身が被る様々な「仮面」は時として辛いことはあるにしろ、基本的にはすべてが自分として納得できるものである。が、学校をやめた頃、先生としての「仮面」と自分自身との間に埋められない違和感があった。結局、学校の先生の「仮面」は私には合ってなかったのである。

 

現代社会を生きていく上で、人は、様々な「仮面」を必要とする。けれと、その「仮面」のすべてが自分である。1つひとつの「仮面」が、自分自身の心の奥の声に忠実であるかを問い続けながら、時にはそれに合わなくなった「仮面」を捨て去る勇気も合わせ持って、現代社会を力強く生き抜いていきたいものである。

                                   〔完〕

               9910

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異者へのまなざし…高橋留美子の異界論

マドンナ・えっせい25

 

異者へのまなざし

 

…高橋留美子の異界論

 

 

15歳の少女・日暮かもめは、神社の隠し井戸に落ちて戦国時代にタイムスリップしてしまう。そして、そこで出会った犬夜叉という妖怪と人間のハーフと共に、四魂の玉のかけらを求める冒険が始まる。現在「少年サンデー」という週間の少年向けマンガ雑誌に連載されている最新の高橋留美子の作品が、この「犬夜叉」である。

 

「犬夜叉」に限らず、高橋留美子の作品には、普通の人間とは異なる存在が登場することが少なくない。例えば、TVアニメや映画にもなった「うる星やつら」には、宇宙人という微妙な設定であるが鬼や雪女、弁天、烏天狗などが登場するし、オリジナル・ビデオアニメとして作られた「人魚の傷」の原作の「人魚シリーズ」には、人魚の肉を食べて不老不死となってしまった人間たちが出てくる。

 

TVアニメやゲーム・ソフトになった「らんま 1/2」でも、水をかけると女の子や小豚や猫に変身し、お湯をかけると元に戻るという、普通ではない人間が主人公や脇役となってストリーを展開する。「めぞん一刻」ではそうした異質の存在は登場しないが、一刻館の住人は年齢・職業不肖の四ッ谷をはじめ、例外なく常人離れをしたキャラクターで固められている。短編で出てくる座敷ぼっこなども含めて考えれば、こうした異者が登場する傾向は決して連載作品にはとどまらないと言えるだろう。

 

だが、高橋留美子の作品世界において、このような異質の存在は、実は異者であって異者ではない。大人気を博した「うる星やつら」の主人公の諸星あたるは、地球人のガール・フレンド三宅しのぶと同じように鬼娘のラムや雪女のユキ、弁天様たちと接しているし、現在、週間「少年サンデー」に連載中の「犬夜叉」(2008年夏/連載終了)でも、ヒロインの日暮かもめは、人間と妖怪の混血少年である犬夜叉や妖狐の七宝と、ある場面においては普通の人間たち以上に親しみと愛情を持って接している。異形のものや特異な能力を持ったものでも、広い意味では「同じ人間」として生きていける世界がそこには存在しているのである。

 

しかし、現在の日本に目を転じてみると、正反対の事例がそこかしこに見られる。同じ人間なのに、わずかな違いやちょっとした差を理由にして、いじめられたり酷い差別を受けたりするという現実が様々なメディアによって至る所で報告されている。

 

例えば、教育関係誌に限らず様々な雑誌や書物で取り上げられ、TVのニュースや特別番組などでも何度も特集が組まれる学校での「いじめ」の問題。真実かどうかは別にするとしても、そのきっかけや背景に挙げられるのは、ほんの些細な差やちょっとした違いである。その背景には、同質性に病的なまでに固執するあまり、本来同等である仲間をわざわざ「異者」に仕立て上げて排除しようとする、余裕のない荒んだ心の風景が見える。

 

そうした「いじめ」は、子どもの世界ばかりでなく、大人の社会でも幅広く見受けられる。南米から日本に働きに来たが職場でいじめや差別にあって心を閉ざしてしまった女性、職員室で孤立し体育館の裏で泣いていた若い講師、自らが差別をされているがゆえに不法滞在のアジア人ホステスを蔑視してしまう男性……。少しアンテナを張っただけで、こんな情景や話をいくらでもキャッチできてしまう現実が今の日本にはある。

 

それは、現在の日本人が心にゆとりを失って追いつめられていることの表れなのだが、そうした心の弱さや醜さをそのまま発散させることは、社会全体が一層ゆとりを失い荒んでいくことにつながっていく。弱者をいたぶり排除を続ければ、次第に自分自身も弱者の側に追いやられ排除される道へと誘導されていくことになってしまうのである。

 

だが、ちょっとした心の持ち方で、そうした悪循環は断ち切ることができる。1人ひとりの「違い」を「個性」として受け入れ、心を通じさせようと努力すれば、時として世代や言葉の壁さえも超えて「思い」を伝えることが可能となる。一方の好意は、鏡のように他方からも好意として返ってくるのである。

 

高橋留美子の作品世界とは異なり、現実の地球には、妖怪や魔物や宇宙人は存在しないかも知れない。しかし、高橋留美子の世界/るーみっく・ワールドの前提にある、「違い」を「個性」として認め「存在」をそのまま受け入れるまなざしがあれば、「異者」も安心して生きていくことが可能となる。そして、「異者」を受け入れることのできる社会は、その視野を拡大し、発想や技術を飛躍・発展させて、社会全体をダイナミックに変革していく力を内在させているのである。

 

私は、自分自身が「異者」であると感じてきたがゆえに、様々な「異者」と巡り合うことができたように思う。そして、彼らとの交流は、私自身の「生」を非常に豊かなものにしてくれたという実感がある。そうした体験から、私は、自分自身を「異者」として生かしてくれる「集団」に対しては、できる限りのことをしてその扱いに応えたいと努力している。その努力は、集団を豊かな形に変革していく力につながると同時に、私自身の人間的な成熟にもつながっている。一方の利害ではなく、双方向の豊かさがその関係には存在しているのである。

 

「異者」をいじめたり排斥したりすると、その一瞬だけは気分が晴れるかも知れない。しかし、そのことによって失われる「豊かな実り」を思えば、そうしたやり方がいかに愚かであるかが理解できるだろう。るーみっく・ワールドの登場人物たちのように、「異者」をありままに受け入れる豊かさを持ち続けたいと思う。

                                   〔完〕

                     99年5月

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フェミニズムの行方…ナオミ・ウルフの視線

マドンナ・えっせい24

 

フェミニズムの行方

 

…ナオミ・ウルフの視線

 

 

その名前を初めて知ったのは、『美の陰謀』(TBSブリタニカ/1994年)という本を読んだ時だった。そして19983月に出た『性体験』(文藝春秋)という書物。フェミニズムの信望者のつもりはないが、ナオミ・ウルフの名は強い印象と共に深く心に刻まれている。

 

ナオミ・ウルフは1962年生まれ。現代のアメリカを代表するフェミニストの1人だが、その文章に男性を糾弾するような戦闘的荒々しさは感じられない。彼女自身がよって立つ現代のアメリカというフィールドの中で、1人の人間として、そして女性として幸福に生きる道を模索し続ける優しさと粘り強さが、その言葉から感じられるのみである。

 

が、同時にそれを阻もうとする要因への視線は鋭く、読む者を引きつけ、奮い立たせる力をも合わせ持っている。もちろん、彼女の立つフィールドは現在のアメリカなのだが、それは、日本の現実と比べてみても、重い指摘を含んでいる。

 

例えば『美の陰謀』の中では、医学上の太り過ぎは女性の4分の1に過ぎないにも関わらず、4分の3の女性が「自分は太り過ぎ」だと信じ、やせ過ぎの女性の半分近くが「自分は太っている」と感じているという報告を引き合いに出しながら「ダイエット」への警鐘を鳴らしている。日本のデーターは知らないが、女性雑誌のダイエット記事やCMの量を考えれば、日本でも同じような傾向があるように思われる。

 

しかしよく考えてみれば、ギリシャやルネサンス、あるいは印象派などの美術作品に登場する女性は、みなふくよかに描かれている。それと比較して現在の日本でTVや雑誌を彩るアイドルやタレント、女優たちの細さはどうだろう。双方の平均体重を比較したとしたら、美術作品のモデルたちの方がかなり重くなるだろうが、どちらが日本の女性たちの現実に近く、かつヒトという生物の「自然な姿」に近いかは明らかであろう。

 

また、『性体験』の中には、次のような記述がある。

 

 

私たちの文化では、女になるための過酷な試練を経る通過儀礼は、ダイエットをはじめとするからだの管理ばかりでなく、性体験とモノの所有と収集によって象徴される。少女たちは買って所有できるもの、また寝る男の数によって大人の女への境界線を越えていく。少女たちにとって危険なのは、まだ精神的に準備ができる以前に、そしてしばしば少女たちに選択権を与えないまま、社会が勝手に少女を大人にしてしまうことだ。(229頁)

 

 

アメリカの、ナオミ・ウルフの過ごしてきた現実と必ずしも一致する訳ではないが、男性雑誌のグラビアやビデオを目にすると、「社会が勝手に少女を大人にしてしまう」というフレーズが、二重、三重の意味を持って響いてくるように感じられる。

 

「コギャル」や「援助交際」などにしても、その背景に「少女」を性的欲望の対象と見る大人の男の視線が存在している。そして、その視線をマス・メディアが興味本位で取り上げ、拡大・増殖させていく。やがて、「欲望の視線」が一般的であるかのような錯覚が社会に蔓延し、心までも侵略してしまうのである。

 

その先には、何があるか。「少女」を売り物にすることによって、「少女の時間」が過ぎ去れば、「自分」の価値を見出だせなくなる。「若さ」を売り物にすることで、「若さ」の喪失によって、自分自身をも失ったような無力感に陥ることになる。

 

だが、それは入る必要のない迷宮である。

 

作られた「欲望の視線」の呪縛から逃れることができれば、そこには、ありのままの自分が存在している。広末涼子や葉月里緒菜のように細くなくても、山田まりあやパイレーツのように若くなくても、今まで生き、今を存在する自分がそこにいるのである。

 

二〇代には二〇代の欲望があり、願いがある。そして三〇代には三〇代の状況があり、夢もある。四〇代、五〇代、そしてそれ以上の年代でも、20歳に満たない世代にも、それは同じである。そして、男と女の違い。それぞれの違いを認め合い、お互いに支え合いながら生きていく道は必ずある。そういう関係の中で、大人の女になり、男になって、年齢を重ねていくのが、ベターではないだろうか。

 

ウーマン・リブやキャリア志向の中で、「女性の自立」が声高に叫ばれているが、人間である以上、男も女も、100%自立できる訳ではない。逆に、お互いの甘えも認め合いながら、現実の等身大の自分を出発点にして歩みを進めていくことこそ、本当の意味での自立へと至る道筋ではないか。ナオミ・ウルフの文章を読みながら、そんなことを感じた秋だった。

                                   〔完〕

                        9811

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個性と演技…池田昌子とメーテルの間

マドンナ・えっせい23

 

個性と演技

 

…池田昌子とメーテルの間

 

 

 1998年春、17年の沈黙を破って、映画『銀河鉄道999』が銀幕に出現した。映画に限らずTVやVTRにおいても、新作なりリニューアルなりの形で何度となく登場する作品は少なくないが、大抵の場合は、沈黙の期間が長くなるほど、キャスティングの変化は著しいものとなる。『ゲゲゲの鬼太郎』、『ルパンⅢ世』などのように、主役の声が変わってしまう場合すらもあるのだ。

 

けれど新作の『999』は、そうした類いのアニメ作品とは一線を画していた。原作者である松本零士の強い意向もあったようだが、主役の星野鉄郎とメーテル、そして999の車掌さんの3人は17年前の映画やTVシリーズと同じ名前が並んでいた。メーテルを演じた池田昌子もその1人である。

 

これは、作品のファンにとってはこの上もなくうれしいことであった。同じように度々登場する主要な脇役の1人であるキャプテン・ハーロックのように、流れてきた声に違和感を覚えるようなことはなかったからである。

 

とは言うものの、17年の歳月は、池田昌子の声から、ある種の若々しさを失わせていたような印象もあった。

 

メーテルは、設定からすれば永遠の時間を生きる謎の美女だが、その肉体年齢(?)は確かハイティーンから20代そこそこだった筈で、そうした年齢の声の張りの表現は、声優としてはベテランの域に入る池田昌子には逆の意味で難しさがあるのかも知れない。

 

そうした点に難はあったけれど、基本的には池田昌子=メーテルというキャスティングは、17年前も今も十分に納得のいくものだった。いわゆるハマリ役ということなのだが、演じるということと個性を考えると、この「ハマリ役」には微妙な問題が絡んでくる。

 

例えば、個性的な悪役の演技で名をはせ、2代目「水戸黄門」を好演した西村晃は、イメージの定着を嫌って亡くなる数年前に自らの意思でその役を降番した。視聴者の1人としては非常に残念だったが、俳優としての彼の感受性や思いには納得できるものがあった。

 

あるいは、「冷たい月」というTVドラマで永作博美と争うヒロインの女医を演じた中森明菜の例。ドラマの題名はともかく、少なくともストリーの展開と永作博美の演じるある種の狂気には納得がいったが、中森明菜はどう見ても役柄から中森明菜の影を消すことができないまま終わってしまったように見えた。

 

裏を返せば、中森明菜というイメージというよりも彼女自身の個性が強すぎるあまり、多少の演技ではそれを消し切れないということでもある。中森明菜は、今までの軌跡から見れば、女優であるよりも先に「歌姫」だと思えるので、役にハマらなかったこと自体がある意味では大いに納得できる部分があった。

 

「演技」自体、広義に考えれば「表現」の1つである以上、そこに「個性」が深く関わってくるのは当然だろう。しかし、「伝達」を考えた場合、時として「個性」がそれを疎外する役割を果たす場合があるということも意識しておく必要がある。

 

これは何も「演技」だけの問題ではない。

 

詩にしろ、絵画などの美術表現にしろ、個性あふれる作品は、往々にして人々の理解を得られずに酷評されたり、日の目を浴びずに埋もれていたりすることが少なくない。宮澤賢治などのように、後の世で評価されることもあるが、表現の過程で個性の表出と伝達との間にある微妙な距離を判断し、決断するのは、非常に難しい。

 

しかし、その決断から逃げることは、自分の人生そのものから逃げることに通じている。その時点での「結果」がどうであろうと、自身の生きてきた道筋と磨いてきた感性のすべてをかけて決断すれば、他者の評価に依存せずに表現を自立させることができる。

 

他者とのコミュニケーションはもちろん大切なのだが、他者の評価を100%判断の基準にすることは、自分の感性に信頼を置かず、自分自身の表現から根本的に逃げることにつながっている。文学なり芸術なり演劇なり、自らを表現する活動に携わる立場に立つのであれば、それは表現から逃避し、責任逃れをしているに過ぎない。

 

たとえ現実の場において他者から評価されなかったとしても、自分自身が表現ときちんと向き合っていたら、誰のものでもない自分自身の人生において、何かを得る筈なのだ。そして、評価や批判の中で、耳を傾けるべき部分には謙虚にそれを受け入れ、譲れない部分については、他者に受け入れられる努力をしつつも、根本的に変更する必要はない。

 

それは、ある意味では辛く厳しいことではあるが、自分自身の表現に責任を持ち、今を生きる自分の存在を大切にすることである。せめて、それくらいの厳しさを持って、表現という活動に臨みたいと思う。

                                    〔完〕

                     98年6月

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メディアと作品…安達祐実とガラスの仮面

マドンナ・えっせい22

 

メディアと作品

 

…安達祐実とガラスの仮面

 

 

素顔を隠して仮面を被る。美内すずえのマンガ『ガラスの仮面』で、主人公の北島マヤは、往年の名女優、月影千草にそう教えられて演劇の世界に足を踏み入れていく。

 

1976年にコミックの第1巻が発売されて以来21年、今なお多くの人々の支持を得て連載が続いているこの作品は、1人の何の取り柄もなかった目立たない少女が、女優という道を歩みながら真摯に生き抜いていく成長と自己実現の物語である。

 

今年(1997年)この作品がTVドラマ化されるという話を知った時、個人的には、非常に驚いた。主演・安達祐実というテロップは、ある程度納得させられるものもあったが、それでもTVドラマ化そのものには困難が伴うことを感じずにはいられなかった。

 

原作となるマンガ『ガラスの仮面』では、主人公の北島マヤが13歳のときの冬からスタートしている。したがって、主役は20歳を過ぎている女優がやるのはほぼ不可能だが、逆にロー・ティーンでは原作の北島マヤの持つ演技力をクリアしにくい難しさが存在する。単なるアイドルに、北島マヤという仮面は荷が重すぎるのである。

 

困難は、それだけではない。21年を経た今なお完結していない原作マンガの作品世界から興味を引かれて注目するファンに、どのような「終り」を用意するのか。途中がどれだけ丁寧に作られていても、最後があやふやな形や不十分な形で終わってしまっては、失望するしかない。

 

以前(1984年)、この『ガラスの仮面』が6ヵ月に渡ってTVアニメとして放映されたことがあった。この時は、アニメーションのデフォルメによって劇中劇の中の北島マヤの天才的な演技力はかろうじて表現し得たが、原作が中断などで完結していないこともあり、ラストは不十分な形で終わったという印象が残っている。

 

今回のドラマ化の場合、ラストの問題に加えて、劇中劇の表現の不備もあったように思われる。安達祐実は「日常の北島マヤ」というガラスの仮面を被るのには成功していたが、女優・北島マヤが舞台の中で被る様々な仮面まではクリアしきれなかったのである。

 

それは何故か。

 

原作マンガの北島マヤというキャラクターは、特にその感受性の面で常人がどれほど努力しても越えられない天性の素質を持つ天才女優に設定されている。彼女はその感受性によってあらゆる役柄と精神的に同調することで驚異的な舞台を創造し得るのである。

 

一方、安達祐実はどうか。「家なき子」や「REX 恐竜物語」といったドラマや映画の例を示せば明らかなように、彼女は十代の女性タレントの中では確かにずば抜けた女優として資質を持っている。しかしそれは、「北島マヤの資質」と比較するとどうしても見劣りがしてしまう。結果として、安達祐美はドラマの中の劇では「女優・北島マヤ」の仮面を被りきれないのである。

 

実写ドラマとアニメーション、そしてマンガという表現形態を比較してみよう。実写とアニメやマンガの間にはデフォルメのしやすさにおいて大きな差がある。リアルさを受け手の想像力でカバーしなければならないメディアほど受容された際の印象が強くなり、デォルメ効果が大きくなる。実写でマンガやアニメと同じほど強い印象を与えるためには、よほどの演技力がなければ不可能なのである。

 

TV、映画、演劇、アニメーション、マンガ、絵画、小説……。時代が進むと共に、人類はより多くの伝達手段を発明し、その内なる思いを表現してきた。新しいメディアの発明は表現の可能性を大きく拡大したが、だからといって古い伝達手段がすべて消滅するわけではない。それぞれの持つ特性によって表現のしやすいもの、しにくいものが異なっている以上、創作する立場に立つものはそのメディアの特性を意識することによってより多くの可能性と結果を手にすることができるのである。

 

例えば、1年以上に渡って話題を提供し、「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」らに勝るとも劣らない大ヒットアニメになった「新世紀エヴァンゲリオン」だが、「もののけ姫」の興行収入との差が示すように、「映画」としては3流もしくは4流の作品であり、明らかに失敗であった。

 

これをアニメーションとしてだけで見たのならば、考えさせられる作品、あるいは冒険心と工夫に富んだ意欲作として評価できただろう。しかし、「映画」というメディアを選びながら予定時間内に編集・調整し切れず、中断してしまった「春の続き」を夏に出すなどは、もっての他である。それは、「映画」としての冒険ではなく、プロとしてお金を取るに値しない非常に無責任な行為である。

 

制作する主体があくまでも作品の品質に拘るならば、レンタル・ビデオの市場の広がりを考えれば、スケジュールの遅れなどの手違いもある程度許されるオリジナル・ビデオとしての選択枝などが存在したのではないか。「映画」でなかったなら、アニメーションの可能性として興味深い点が多かったがゆえに、残念な「作品」である。

 

創造的な活動に関わる者にとって、様々な表現メディアのある現在は、多くの可能性に満ちている。しかしその一方で、そこに落とし穴も存在する。例えば、文芸作品のジャンルなどでも、「作品」にあったものを選択できる「目」を持ちたいと思う。

                                 〔完〕

                      9712

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崩れ出した日常…ナタリー・ポートマンの少女期

マドンナ・えっせい21

 

崩れ出した日常

 

…ナタリー・ポートマンの少女期

 

 

少女は女だった。そして男は子どもだった。それが、ナタリー・ポートマンのデビュー作『レオン』の設定である。〈殺し〉以外のすべてに不器用で、子どものように純朴な殺し屋レオンに命を救われ、彼を愛するようになる少女マチルダ。ナタリー・ポートマンは、崩壊している家族関係の中で精神的に大人にならざるを得なかった少女を好演した。

 

続いて彼女は、『ヒート』、『ビューティフル・ガールズ』の映画に印象的な脇役で出演している。『ヒート』では離婚と再婚を繰り返す仕事熱心な刑事の義理の娘で、別れた父親への思いに揺れる不安定な少女を演じ、『ビューティフル・ガールズ』では、結婚に迷って帰郷した自立しきれない中年男と淡い思いを交わし合う早熟な明るい少女を好演している。3作品のそれぞれで、別々の「少女」を見事に演じ分けているのである。

 

が、その一方で、極めて対称的な3人の「少女」に共通しているものもある。それは、背景としての家族関係の弱さである。離婚と再婚を繰り返す大人の彷徨い、そしてそうした成育環境の結果として輩出するアダルト・チルドレン。そうした環境の中を生きる少女たちは、早く大人になるか、繊細な感受性ゆえに過度に傷付き自己を崩壊させようとするかの選択を迫られる。奇しくもそれは『レオン』と『ヒート』においてナタリー・ポートマンが演じた2つの対称的な「少女像」と重なっているのである。

 

この2つの少女像がアメリカの現実の少女の姿から生まれたものであるならば、『ビューティフル・ガールズ』におけるナタリー・ポートマンは男たちの理想としての少女の姿を描いている。それは女としての存在ではなく巫女としてのそれであった。

 

エロス的な結びつきというよりも、少女たちとの一瞬の邂逅によって、行き詰まりかけていた現実に対処する知恵と活力を見出だすきっかけを与えられる。それは、一種の聖なる儀式であり、彼女たちを自分の現実の中に引き寄せてしまってはお互いが崩壊していく。その微妙で繊細な存在感をもナタリー・ポートマンは演じていた。が、それゆえに彼女の家族の存在感は稀薄であり、それに対して登場人物の多くがアダルト・チルドレンの心性を抱え込んでいた。

 

以上の通り、ナタリー・ポートマンは3つの映画の中でまったく異なる少女を演じたが、その背景には、崩壊した家族関係という共通のものがあった。もちろん、3作品ともアメリカを舞台にした映画である以上、そうした家族崩壊の描き方は非常にアメリカ的である。が、家族を中心にした日常の中で最も大切な関係性の崩壊は何もアメリカだけの問題ではない。現れ方は違っていても、日本にも同じ問題が存在しているのである。

 

たとえば『レオン』におけるマチルダのように、早く大人にならざるを得なかった子どもたちの心の中には、無理やりに抑圧された子どもの心が色濃く残っている。そして、大人として生活しているある日突然、小さなきっかけからそれが暴発し、様々な問題行動となったり、日常的な「生き難さ」を感じたりするようになる。

 

いわゆるアダルト・チルドレンの症状の1つのパターンであるが、周囲の人々との関係が微妙なバランスによってギリギリの状態で保たれている裏で、いつ切れてもおかしくないという不安と恐怖を抱え込んでいる。それはアダルト・チルドレンたちばかりでなく、子どもたちの中にも存在している心象風景である。

 

その象徴の1つが『新世紀エヴァンゲリオン』の爆発的なヒットだろうと考えている。「ダカーポ」373号(97年5月7日発行)によれば、『エヴァンゲリオン』は4月時点での映画の興行収入145000万円、LD&VTRの売り上げ254万本、関連CD総販売数160万枚、コミック&フィルム・ブックの発行部数770万部、セガ系ゲーム・ソフト出荷本数70万本と、現時点で200億円以上の経済効果を達成しているらしい。

 

『エヴァンゲリオン』というアニメーション作品は、登場人物のほとんどすべてが人間関係に不器用であったり多くの問題を抱えていたりしている。アニメーション制作のノウハウからのヒットする特徴も数多く持っているが、何よりもそうした作品の背景に色濃く描かれている関係性の病理が中学・高校生といった世代から、30代の一部にまで、作品への無意識的な共感を生み出す大きな要因となっているのだろう。

 

日常的な「生き難さ」自体は、その人の成育歴と深い関わりを持つわけだが、それを克服して行く過程は「癒し」と本当の意味での「自立」によって達成される。『ビューティフル・ガールズ』でナタリー・ポートマンの演じた少女マーティーは、大人の男性にとっての「癒し」としての役割を果たしていたが、少女たちの「援助交際」が問題化している現実にあっては、マーティーのような少女が実在できる余地を社会そのものが奪っていると言って良い。性を買う側の暴走する欲望と売る側の荒涼とした心象風景が、魂の癒しに必要な神話や幻想を窒息させているのである。

 

そのような形で崩壊し始めている「日常」を生きるのは、確かに辛く苦しい。しかし、夢を見る力と夢を追う力を失わなければ、逆流の中でも何とか立つことができる。そこで足場を確保しながら、周囲の人々や子どもたちの間に、少しでも夢の力を回復していければと思っている。

                                    〔完〕

                          97年4月

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