カテゴリー「直の幻影」の31件の記事

『異・邦・人』第3部

直の幻影 31

 

   *

 31

 

そして3ヶ月が過ぎた。ようやく心の痛みも遠のき始めた頃、不意に1通の手紙が届いた。水色の封筒の裏側に「れみ」の文字。私は、懐かしさと微かな痛みを胸に感じながら封を切った。そこには、青いインクで、びっしりとれみの思いが綴られていた。

 

  香織、ありがとう。

 

あなたを思う時、最初に心に浮かぶのはやはりこの言葉です。それでも、心の底からそれを言うことはできません。そう、私は知っているのです。直があなたにしたことも、そしてあなたが封じ込めた想いも…。でも、それは直を通して知ったのではありません。あれ以来直は、悪魔のように強くなって、私の接触テレパスすらも完全に自分の意志だけでガードしているからです。でも、そんな直も、私か「真実」を知っていることには気づいていません。私がすべての「真実」を知ったのは、香織、あなたからなのです。

 

あなたは確かに強い心を持った優しい人でした。でも、いくらそんなあなたでも、あの不安定な精神状態で私の接触テレパスをガードするのは無理です。最後の日、あなたが私の額をコツンと叩いた時…その一瞬で私は全てを知りました。どんなに悩んだ事でしょう。どんなに苦しんだ事でしょう。それなのに、あなたが私にくれた優しさは本物だった。だから私は気づかぬ振りをしてあなたと直に騙されることにしたのです。だって、すべては私が直を愛してしまったことから始まったのですから。

 

あなたの住む街を離れてから、直は別人のように変わってしまいました。誰よりも冷たく、そして強くなってしまったのです。私が恋に落ちた頃の、あの繊細で、感受性が強くて、そして誰よりも優しかった直の姿は、今、ほとんど見ることはできません。私にだけにくれる柔らかな微笑みの中にも、あの頃の春の陽射しのような穏やかな優しさは感じられなくなってしまったのです。けれども、そんな風にまで変わる中で直の心はどれほど血を流した事でしょう。それを考えると、哀しみで胸が潰れる思いです。ましてや、その最後の1押しがあなたによってなされたのだと思うと…。

 

ええ、もちろん私にだって分かっています。シドも、直も、そしてあなたも、それぞれがそれぞれの立場で私の身を案じ、私のために最善と思われることをやろうとしてくれたのです。ただ、それが絡まり、縺れあって、最悪の方向へねじ曲がってしまっただけなのですから。だから、私は直に何も言えないし、また、言わないつもりです。直が私への愛ゆえに、そして私を守るために変わってしまったのだから、私にできることといったら、愛することと、生き抜くことだけなのです。

 

だけど、こうして生きることは、時として死ぬよりも辛い。だから、思いをぶつけられる人が欲しいのです。でも、もう直にはそれはできません。直の強さは、直の強さは、本当は、ガラス細工のように脆い強さなのです。だから私は、ただ直に甘えて、振り回して、困らせて、そして最後にはいつでも直の胸に飛び込んで守ってもらう…そんな風に生きていこう、そんな風に直を愛していこうと思っています。

 

でも、すべての真実を心の奥底に封じ込めてしまうことができるほど私は強くなかった。だから今、こうしてあなたに手紙を書いています。もしかすると、こんなことをしては、返ってより深くあなたを傷付ける事になるのかも知れません。でも、私には香織、あなたしかいないのです。…私は一体何を書いているのでしょう。事実? それとも、封印しようとしている思い? それとも、無意識の中に芽生えたあなたへの憎しみ? 多分、それらを含めたすべてなのでしょうね。

 

少しだけ憎んだ、大好きな香織。あなたのために、あなたが封印してくれた愛のために、そして、死んでいったシドと私のために生き続ける直のために、私は石にかじりついても生き抜こうと思っています。そう、それは今までの私に足らなかったもの、そして、あなたとシドと直に教えられたものでもあるのです。運命に押し流されて生きるのではなく、どれ程辛く苦しくても自分の意志で生き抜く。たとえ外見はどうであろうと、私はそのように自分自身を変えていかなければと思っています。

 

新しいこの街で、直は氷のように冷たく、危険な男の顔で、女たちを弄び、傷つけて生きています。私は相変わらず可愛い女の子の仮面を被って男たちの間を擦り抜けて生きています。生きるために続ける「恋愛ゲーム」は辛く悲しいけれど、直がいてくれるから、きっとこれからも生きていけると思います。

 

いろいろと取り止めもないことばかりを綴ってしまいました。けれども、香織にだけはどうしても書かずにはいられなかったのです。しかし、それもこれが最初で最後。私は、いいえ私たちは、2度とあなたの住む街には行きません。あなたの前には姿を見せません。これ以上優しいあなたを巻き込みたくないから…。でも、もう1度だけ言わせて下さい。ありがとう。そして、永遠にさようなら。

                                    れみ

 

 

手紙を読み終えた瞬間、頬から1筋の涙がこぼれ落ちた。

 

その涙の意味を、私は知らない。

                                      〔完〕

 

 

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直の幻影 30

 

   *

 30

 

その時、ドアを叩く音がした。私は、引きずり込まれそうにになった沈黙の闇から抜け出して、ドアの方に歩いていった。

 

「香織、いる?」

 

訪問者は舞だった。私は、無言で彼女を中に引き入れた。舞は、放心したように座っている私のそばに静かに座った。穏やかな表情。私はそれに引き出されるように語り始めた。

 

「舞…。私、失恋しちゃった…」

 

「そう、やっぱりね。本当に香織ったら、優しく、お人好しで、バカなんだから…」

 

「本っ当。そうかもね。でも仕方がないじゃない。これが私だもの」

 

私はそう言って笑った。胸はまだシクシクと痛んだ。だけど、舞との他愛ないお喋りが、少しずつ痛みを薄めてくれるような気がした。こんな日々を重ねていけば、きっとまた、いつもの自分に戻れるに違いない。私はそう確信していた。

 

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直の幻影 29

 

   *

 29

 

TRRRRRU・TRRRRRU・TRRRRRU…

 

午後10時頃、突然電話が鳴った。眠ろうとベッドに入り掛けていた私は慌ててケイタイを取った。電話の向こう側から記憶の奥に刻み込まれた声が響く。彼だった。

 

「明日の朝、れみと2人でこの街を出ることにした。いろいろあったけど…」

 

彼の言葉が澱んだ。私は慌てて言葉を被せた。

 

「いいえ、何もなかったのよ。何も…ね。れみは?」

 

私の思いを察したのだろう。彼は、はっきりとした口調で電話を続けた。

 

「元気だ。君に別れを言いたいと言ったんだけど止めさせた。その方が良いと思ったんだ。もう、2度と君の前には姿を見せない。約束するよ」

 

「そう…。私かられみを奪うのね。良いわ。分かった。それも含めて、私にしたことはみんな許してあげる。だけど、れみを不幸にしたら許さないから…」

 

「それだけは絶対に。命に代えても…」

 

彼の言葉に、私は、強い口調で切り込んだ。

 

「いいえ、そんな言い方は止して。あなたは生き抜かなければならないの。氷の心を持った悪魔として、石にかじりついても生き抜かなければならないのよ。そして、どんなに辛くても悪魔になり切るのよ。私の時のような中途半端な冷たさは、相手ばかりでなく、れみも傷付けるわ。だから、悪魔として生き抜いて。それが、私の復讐だし…どうしてもかなえて欲しい願いでもあるのだから…」

 

「分かった。約束する。じゃあ、これで…」

 

こうして電話は切れた。これで本当にすべて終わったのだ。そう思った途端、身体中の力が抜けてしまった。私はその場に座り込んでしまった。

 

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直の幻影 28

 

   *

 28

 

長い長い夜。

 

それでも、夜明けの来ない夜は無い。それは人の心も同じなのだろう。

 

眠れぬまま苦しみ続けた夜が明け、ふと見上げた窓から朝の光が差し込んでくるのを見た時、私は涙を流した。生きるということは、時として、とても辛く哀しい。しかし、それに耐えて生き抜くことは、やはり素晴らしいことなのだ。

 

カーテンを開くと、少し眩しい太陽の光が目に入った。窓際に立った私は、疲れ切った心を無理やりに奮い立たせるために強く拳を握り締めた。そして、いつも通りの日常に戻るために大きく伸びをした。

 

たとえば恋…。今、1つの恋が終わった。

 

私は、彼の横顔を思い出してみた。

 

上田直。優し過ぎた悪魔。彼の強さと彼に突きつけられた私の弱さが、今までの私を根底から突き崩した。そして、いつしか私は恋に落ちていた。それが、れみとの関係によってねじ曲げられた。いや、私たちの出会いそのものが、運命によってねじ曲げられていたのかもしれない。

 

れみへの想いと複雑に絡み合い行き先を見失った私の恋。行き場を失った私の想い。そして、その想いは鋭い刃となって私の心を切り裂いたのだった。

 

それでも私はれみが好きだった。ひたむきに生きるれみを憎むことができなかったのだ。その結果、私に残された道は、自分自身の手でこの恋を封印する以外になかった。私は、不安定で明日のない激しい恋ではなく、自分で立ち、自分で選ぶ未知の未来を選んだ。

 

こうして、永遠とも感じられた闇は去り、苦しみの夜は明けた。まったく同じには戻れないだろうけれど、私はまた以前の自分に戻る。強い香織に戻るのだ。それが結局、1番私らしい生き方なのだ。朝の光の中で、私はそう心に言い聞かせていた。

 

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直の幻影 27

 

   *

 27

 

彼が去ってから20分もしないうちに、もう1人の訪問者が私のドアを叩いた。

 

れみだった。

 

私はそっとドアを開け、れみを部屋に導いた。

 

「もう。あれほど待ちなさいって言っておいたのに…」

 

一応はそう言ったものの、私には、れみの気持ちが嫌になるくらい良く分かった。

 

それに私は知っていた。いずれ、れみとも話さなければならなかったのだ。それが、少し早まっただけのことだった。

 

ただ、1つだけ問題が残っていた。それは、れみの接触テレパスだった。

 

けれども、彼は「強い意志さえ持っていれば読まれない」と断言していた。今はその言葉を信じてれみに向き合うしかない。私は覚悟を決めてれみの前に座った。

 

「ごめんなさい…どうしても1人ではいられなくて…」

 

れみは少し頬を染めながら目を伏せた。完全に私を信じきっている仕種。それが胸に痛かった。けれども、れみのためにも、そして彼のためにも、最後まで嘘を貫かねばならなかった。胸の痛みをこらえながら私は口を開いた。

 

「今日も連絡があったわ。そして、私が言えるのは嬉しい知らせ。彼は…上田直…さんは、あなたのところに戻ってくるわ」

 

れみの表情が揺れる。嬉しさ、そしてあまりにもあっけない結末への微かな戸惑いと不安。それから、押さえ切れない喜び。交錯する感情に揺れながらも、れみの瞳は生気に満ちてキラキラと輝いていた。

 

「良かったね。きっと彼、明日にでも姿を見せると思う。待たされた分、思いっきり甘えてやると良いわ」

 

「うん…でも、突然過ぎて…。どんな風に甘えていいか分からない。ねえ、どんな風に甘えたら良いと思う?」

 

「バカ! そんな事、自分で考えなさい。甘える…なんて私、1番苦手なんだから。私に聞かれたって答えようが無いわ。本っ当にバカバカしい! 勝手になさい!」

 

そう言いながら、れみの額をコツンと叩く。何も知らない私がしたであろう反応。けれどそれは、必死の演技だった。一瞬触れた額に接触テレパシーの事を考えたが、れみは、そんな私の心に気づいた様子もなく、嬉しそうに微笑んだ。

 

「ごめんなさい。そして、ありがとう」

 

「ううん、良いのよ。それよりも、もしかしたら今日中に電話があるかもよ。だから『夜遊び』は早めに切り上げた方が無難ね。でも、それを怒る彼じゃないわね」

 

そう、れみたちにとって『夜遊び』は大切な食事でもあるのだ。それを彼が怒るはずはない。もっとも、私のところにいても『夜遊び』にはならない。だから…という訳ではないが、私はれみに早く帰って欲しかった。これ以上の演技が辛かったのである。

 

そんな私の心を察した訳でもないのだろうが、れみはすぐに立ち上がった。

 

「色々とごめんなさい。そうね、『夜遊び』もしなくちゃいけないからそろそろおいとまするわ。また連絡する」

 

れみはそう言って帰っていった。

 

私は、窓からそれを見送った後、1人ベッドの上に倒れ込んだ。

 

「これで良かったんだわ。これで…」

 

そんな言葉をつぶやいてみる。けれども、言葉とは裏腹に、私の心は沈んでいった。理性では押さえ切れない感情の疼きが、心の中で荒れ狂った。良かったのだと思いながらも、感情を押さえてしまった自分を受け入れられない私がいた。暗い感情の渦に心が引きずられ、私は闇の中をのたうちまわった。

 

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直の幻影 26

 

   *

 26

 

「君は…そこまで言うのかい?」

 

瞳の中の氷が砕け、驚きと哀しみの色があらわになった。

 

私はそんな彼の瞳から目を逸らした。そうしなければ次の言葉が続けられなかった。

 

…お願い、悪魔のままでいて…

 

私は、心の中でそう叫んでいた。

 

「ええ。私はあなたを愛している。だけど、れみも好きなの。恋敵になるというのに、どうしても憎めないの。でも、おかしいでしょ? あなたは憎んでいるのよ。愛しているけど、憎んでるのよ」

 

「そうか。…どうやら君に対する認識は間違っていたらしい。君は強い。悲しいくらいに強いよ。殺すなんてとんでもない。君になら、記憶のコントロールさえ必要ないかもしれない。…いや、そんなこと、しないでおくよ」

 

「どういうこと?」

 

「君がれみに言った通りだったんだよ。…僕は、シドの命と記憶と超能力とを受け継いだつもりでいた。しかし、そうではなかったんだ。シドの命と重なる事で、彼の持っていた超能力とは比べ物にならない強い力が僕には備わっていたらしい。今の僕は、多少は、他人の記憶や感情もコントロールできる力まで持っているんだ。あの車を、ある女性からもらったのも、その力を意識せずに使ったからだった。僕はもう、とても地球人とは言えない。こんな力があると分かっていたら、君を追いつめ、苦しめる必要なんてなかったんだ。今になってそれが分かるなんて…」

 

剃刀のように鋭かった彼の言葉が刃こぼれをおこす。それは、れみが愛し、私が愛した上田直の真実の姿だった。これ以上それを見てしまってはいけない。私は、自分の思いを押さえつけるように叫んでいた。

 

「ダメ! それ以上は言わないで! あなたを憎めなくなってしまう。愛しているけど憎んでいる。だからこそ、あなたをれみに返すことができるの。あなたを憎めなくなってしまったら、私はもっともっと苦しまなければならない。だから…どんなにひび割れても、剥がれそうになっても、悪魔の仮面だけは捨てないで! …最後まで冷たいあなたのままでいてほしいの…」

 

細く鋭い針のように尖っていた私の言葉が錆びつき、感情の襞の間に引っ掛かってしまう。今、私にも、彼の言葉の真実が実感できた。彼はまさしく自分の変化に流され、冷静さを欠いていた。表面はどうであれ、変化してしまった自分自身に戸惑っていたのだ。

 

彼の冷たさすらも、その変化に対する過剰適応だったのかもしれない。それが分かった瞬間、私の目から1粒の涙がこぼれ落ちていた。

 

彼にその涙の意味が分かったのだろうか。彼はどこか悲しげな光を浮かべた瞳で私の肩を抱き、そっとその涙に口づけてくれた。

 

悪魔になり切れない悪魔。その優しさが哀しいと思った。

 

「ありがとう…でもあなたは悪魔。悪魔になるの。中途半端な優しさは、返って人を傷付けるものなの。それを知っててやってるなら良いわ。でも、そうでないのなら2度としないで。あなたはもう天使には戻れない。どんな辛くても苦しくても、悪魔になるの。…それは私の呪いでもあるのよ」

 

その言葉に、彼は小さく笑った。覚悟が決まったのだ。そして、その微笑みを最後に、彼は私の部屋から立ち去った。私はそれを無言で見送った。れみのためにも、そして、彼自身のためにもそうでなければならないのだ。

 

けれども、胸を刺す鈍い痛みがもう1つの私の想いを示していた。

 

彼があの時冷静さを失ってくれたならば、その混乱に巻き込まれて、一緒に死ねたかも知れないのに…。そんなことを望んでしまう恋心が、胸の痛みの中にあった。人を好きになるという事は、もしかすると、恐ろしい狂気なのかも知れない。そんな風に揺れ動く心を、もう1人の私が冷たい目で見つめていた。

 

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直の幻影 25

 

   *

 25

 

そして夜。

 

私は1人、部屋の中でベルリオーズの幻想交響曲を聞いていた。

 

舞は、正午過ぎまでずっとついていてくれたが、午後の講義に出席することを告げるとうなずき、大学まで私と一緒に行って、第2校舎の前で別れた。

 

私の回復を完全に信じたとは思えなかったが、私の自尊心を気づかって、あえて1人にしてくれたのだろう。講義を終えてアパートに帰ると、再び舞がドアをノックした。紅茶を飲みながら23言会話を交わし、私が落ち着いているのを確かめると、舞は隣の自分の部屋に戻った。

 

「伸一が来る時間だから帰るけど、何かあったら壁をたたいてね」

 

舞は最後にそう言ってドアを閉めた。

 

しばらくすると聞き覚えのあるエンジンの音か聞こえた。エンジン音はアパートの横の駐車場で止まった。階段を上がる足音、そしてノック。舞の部屋だった。ドアが静かに開いた。中村くんが来たのだろう。

 

舞は、私のことを心配して彼を呼んだのだろうか。いや、考えないでおこう。舞と中村くんになら甘えられる。自分を持て余し始めたら、隣の部屋を訪ねれば良い。きっと2人は温かく迎えてくれる。私は改めてストコフスキーの演奏に耳を傾けた。

 

ファンタジア。…それはまさしく音の幻想だ。スピーカーから流れてくる曲の中に耳をあずけ、そっと目を閉じる。少し妖しい鐘の響きが、疲れた心に染み込んでいく。ベルリオーズは、どんな思いでこの曲を作ったのだろう。

 

夢幻のトーンの中で、私はぼんやりそんな事を考えていた。

 

断頭台への行進、そしてワルプルギスの夜。幻想の調べは第4楽章から第5楽章へと移り行き、そして終わった。スピーカーの沈黙。私は静かに目を開けた。

 

そこに彼がいた。

 

「あなた…いつの間に…」

 

私の問いに彼は静かに答えた。

 

「第4楽章が始まった頃かな。君はもちろん、他の誰にも気づかれずに入ってきた。ファンタジアの調べに誘われてね。ストコフスキーの幻想交響曲は僕も好きだから…」

 

「…今日とは言わなかったわ。せめて、もう23日欲しかった。でももう良いわ。それで、私をどうするの? 悔しいけれど、好きになってしまったから私の負け。何をされても…命を奪われたって文句はないわ。れみのためでもあるわけだしね。あれからずっと考えていた。私はあなたを憎んで、憎んで、憎んで…それでもあなたを心から消し去る事はできなかった。その時はっきり分かったの。憎悪は愛の裏返し。結局、あなたを愛してしまっていたのね。初めての男性だったし、私よりも強い男性だったし、そして、すべてを捨てても1人の女を愛することのできる男性だった。だから、知らず知らずの内にあなたに惹かれていたんだわ。それを認めたくなくて、ずっと憎もうとしていたのね…」

 

淡々と流れる言葉の中には何の強がりもごまかしもない。すべて、今の素直な気持ちだった。それを聞くうちに、彼の氷の表情が崩れた。少し悲しげなまなざしが天井を仰ぐ。一瞬の事でしかなかったが、そこに彼の全てを見たような気がした。

 

私は、彼の悲しげな瞳にささやいた。

 

「ダメよ、今さら。れみのために悪魔になるのでしょ? 今になって天使には戻らないで。あなたはこれから氷のまま生きていくんだから。私は、そんなあなたを好きになったのよ。だから、どんなに傷付き、心に血が流れても、氷の仮面を手放してはダメよ。そうでなきゃ、れみは守れないわ」

 

彼は、まっすぐに私を見た。

 

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直の幻影 24

 

   *

 24

 

「だけど、香織…。その男の人、どうするの? 友達のこともそうだけど…」

 

落ち着きを取り戻した私に、舞はポツリと言った。

 

「香織が、チャラチャラした軽薄なプレイ・ボーイに騙されるなんて考えられないし…。もしかして、その人を好きになってしまったんじゃないでしょうね?」

 

好き? あの上田直を…? その言葉は稲妻のように私の心を突き抜けた。

 

「…まさか、そんなことは。いいえ、そんなことはないわ。…れみが愛した彼ならともかく、どうして…あんな…怖い男を」

 

そこまで口にしかけて、私の声は凍りついた。

 

心を覆っていたすりガラスの壁が音を立てて崩れ落ちていく。舞の一言は、彼の存在が深く深く心につきささっていることを気づかせてくれた。そう、私は彼が好きだったのだ。その事実に、私は言葉を失ってしまった。

 

彼は優しく、鋭い感受性を持っていて、それなのに、私の前では圧倒的に冷たく、強く、そして怖かった。でも、それは強い愛のためだった。

 

天使だった彼は、愛するれみのために悪魔になったのだ。今までに出会った事のない程に、優しく、強く、そして恐ろしい男性。初めて私を恐れさせ、今まで気づいてなかった女としての弱さを私につきつけた男性。愛する人のために悪魔にすらなれる男性。

 

私の沈黙に、舞はすべてを察したようだった。

 

苦しむ事を知っているのに落ちていく恋。嫌いになりたい…忘れたい。そんな風に心に言い聞かせ、どれ程激しくもがいても、坂を転げ落ちるボールのように悲しい闇に飲み込まれてしまう。私も、そんな恋の1つに落ちてしまったのだ。

 

呆然としている私に、舞はそっと言った。

 

「香織…もし本当にその人が好きなら、たとえ、友達を失うことになっても、あなたの気持ち通りに行動するべきだわ。今のあなたは、恋を失うことに耐えられる程強いとは思えないもの。そして私は…私は、誰よりもあなたに幸せになってほしいの」

 

それは、私を心から気遣う言葉だった。

 

私は、それをはっきりと感じてはいたが、曖昧な微笑みでしか応えられなかった。

 

もし、彼が普通の人だったら、そしてれみが私たちと同じ地球人だったら、私は舞の言葉に従ったかも知れない。しかし、私は哀しい真実を知っていた。その真実の前には、当たり前の恋のマニュアルなど無意味だった。

 

上田直は…もはや人間とは異質の存在となっていた。すべてはれみのためだった。そんな彼を、れみと争ってどうなるというのか。万に一つも心変わりをしないであろう彼。その彼が心変わりをしたとしても、幸せな普通の日々など望むべくも無い。

 

それに、私が彼を愛した理由の1つには、明らかに、命を掛けてれみへの愛を貫こうとしている彼の姿があった。愛のために、人間としての生を捨てた男性。れみのために私を追い詰め、妖しい力と氷の心で私を奪った男性。その哀しい強さが私の心を惹きつけたのだろう。私はそっと、彼の冷たい横顔とれみの淡い笑顔を思い浮かべるのだった。

 

 

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直の幻影 23

 

   *

 23

 

「香織…起きてる?」

 

太陽の光がカーテンの隙間からこぼれ始める頃、ドアの外で舞の声がした。昨日の事があったので、舞が気を利かせて覗きに来てくれたのだろう。けれども私は、動くどころか、それに応える気力すらも失っていた。

 

「香織、大丈夫? 入るわよ!」

 

私の無言の返答に異変を察した舞は、そう言って部屋に入ってきた。そして、ベッドの上の私を見つけると、すぐに枕元まで近寄ってきた。

 

「…一体どうしたの?」

 

春の光にまみれたたんぽぽのような舞の声。それが私にはまぶしかった。

 

「舞…ごめん。1人にしておいて欲しいの…」

 

私は布団の中からそう言った。

 

「ダメ。今の香織、どんな顔してるか知ってる? いつもの自信に満ちた香織だったら、ちょっと頑張り過ぎての小休止だったら私も放って置くわ。だけど、今朝の香織は違う。昨日はまだ瞳に輝きがあったけど、今日はそれすらも無いわ。そんな生気のない顔で、何も理由を言わずに『1人にして』は聞けないわ!」

 

舞の声は、砂地に染み込む水のように私の傷だらけの心に染み込んできた。

 

本当は、その1言が言って欲しかった。それなのに、私はそんな舞に素直に応えられなかった。ひび割れ、壊れかけた今までの「仮面」の中に逃げ込もうとしていた。

 

しかし、ほとんどかけらだけになっていた仮面は、まともな反応を返せなかった。形だけの強がり。けれども、それこそが私の仮面の崩壊を一層浮き彫りにしていた。

 

そして、その事がまた私を傷付けた。1番心を許しているはずの舞に、どうしてこんな風に強がらなければならないのか。昨日は、あんなに安心して甘えられたのに…。

 

結局、私は何も言えぬまま、布団で顔を隠すのだった。

 

「香織…。何を悩んでいるの? 何を苦しんでいるの? そりゃ、私なんか頼りにならないかも知れない。甘えんぼで、わがままで、気が弱くて、不器用で、ドジで、気がつかなくて…。だけど、少しでもいい。どんなに困った時でも側で支えてくれたあなたの役に立ちたいの。苦しみや悲しみを1人で背負い込むのはとても辛いことよ。あの時は、香織と伸一が私の話を聞いてくれた。それだけで、私がどれほど救われたか…。だから、今日は聞かせて欲しいの。…そりゃ、私は力もないし、何もできないかも知れない。でも、一緒に苦しみたいわ…」

 

私は布団に顔を隠したまま、その言葉を聞いた。

 

知らず知らずのうちに流れ出す涙。そして、その涙と一緒に、私の屈折した思いも、かたくなな強がりも流れ去っていった。私は、そっと布団から顔を出して舞の顔を見た。涙に汚れた顔を、舞は穏やかな視線で包んでくれた。その温かさに引かれるように、私は口を開いた。

 

「舞…私…友達の彼に奪われてしまったの。初めてだったのに…。まだ誰にも許してなかったのに…。分からない。どうしたら良いのかも、私がどうなってしまったのかも…。一体私はどうなってしまったの? そして、どうしたら良いの? 助けて、…舞」

 

思いもかけなかった告白に、舞は一瞬息を飲んだ。けれど、すぐに私のベッドに腰掛けて、そっと膝に私の頭を乗せた。

 

私の髪を、背中を、舞の手が撫でていく。髪から首筋へと流れていく心地好い指先。そして、背中を叩いてくれる掌の温かい感触。私は子どものように舞の膝の上で泣いていた。

 

「香織…辛いときは、泣けば良いじゃない。涙と一緒に辛い出来事は流してしまえば良いのよ。…私は何もできないけれど、こうして、そばにいる事くらいはできるわ。そう言えば、あの時は、私がこんな風に取り乱したわね。そして、それを慰めてくれたのは香織、あなたと伸一だった。あの時は、私も死ぬほど辛い思いもしたわ。でも、あなたと伸一がいてくれたから、今もこうして生きている。どんなに激しい心の痛みも、涙と、そばにいてくれる人が薄めてくれるものよ…」

 

舞は、子守歌のように穏やかな声でそう囁いた。1つひとつの言葉が、舞の体温と同じくらいに温かで、優しかった。傷に当てられたガーゼのように柔らかな舞の言葉は、砂に染み込む水のように私の傷ついた心に染み込んでいくのだった。

 

そんな風にして、私は舞の膝の上で時を過ごした。まるで、遠い子どもの頃の自分に戻ってしまったような一時。そんな時間の中で、ヒリヒリとした心の痛みも少しずつ薄らいでいった。

 

独りぼっちではない、只それだけのことで人は救われるものなのだ。

 

私は、舞の膝の上でそのことを実感していた。そして、それを教えてくれたのは、いつも私が守っていたはずの舞だったのである。

 

やがて、私は、自分の心の中に穏やかな光が戻りつつある事を感じた。少しだけ目を開けてみる。部屋の中が昨夜とは違って温かく感じられた。私は、舞にささやいた。

 

「ありがとう…舞。私も何とかいつもの私に戻れそうよ。…だって今、こんな強がりを言ってるもの…」

 

舞は手を止め、柔らかな視線で私の目を見つめた。

 

「そうね。まったくいつも通りとは言えないけれど、香織の目だわ。じゃあ、コーヒーでも入れるわ。持ってくるから待っててね。一昨日、伸一が新しい豆を持って来てくれたの。ブルー・マウンテンよ」

 

舞はそう言って立ち上がった。さり気ない思いやりが胸に染み込む。舞の、何と強くなった事だろう。いや、シドの事件が舞を強くしたのか。それに比べて、今の私の弱さはどうだろう。私も、舞のように立ち直らなければ…と思った。

 

やがて、部屋の中に、優雅なコーヒーの香りが漂い始めた。

 

「はい、ミルクはもう落としておいたわ」

 

そっとカップを差し出す舞。コーヒーの中をミルクが渦を巻きながらクルクル回って落ちていく。そっとそれを口に含む。目覚めを誘う苦みと共に命の温かさが私の心に広がっていく。そんな温かさの中で私は思った。もう1度、強かった自分に戻ろう。まったく同じではいられないだろうけれ、前の自分に戻れるようにがんばってみようと。

 

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直の幻影 22

 

   *

 22

 

 そして朝。

23日の内にもう1度顔を出す。結論を出すためにね…」

 

朝日が窓を染める直前に、彼はそんな言葉を残して立ち去った。

 

私はその声を聞きながらそれに応えず、黙って彼の後姿を見送った。憎悪の視線の棘で彼を刺し殺してやりたいと思った。

 

下腹部にはまだ鈍い痛みが残っていた。しかし、その痛み以上に、こんな形で体験してしまったことがショックだった。

 

もっと強かったはずなのに…。もっと理性的だったはずなのに…。そんな思いが胸の中で泡沫のように沸き上がっては消えていく。けれども、もう、過去の強かった私は跡形もなく崩壊していた。今、ここにいるのは今までの私の抜け殻でしかなかった。

 

虚ろな目が意味もなく天井のボードを写し出す。私は何もできぬままドサリと1人ベッドに倒れ込んだ。

 

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