直の幻影 13
*
13
次の朝はローズ・ティーの香りで目が覚めた。
「お早う。お目覚めの紅茶はいかが?」
私は、軽く伸びをした。ぼんやりした頭の中に、昨夜の記憶の断片が蘇ってくる。
瞬間、私は飛び起きた。れみは大丈夫なのだろうか。改めて彼女を見る。顔色はまだそれ程良くなかったが、どうやら落ち着いたらしい。私はベッドを出て顔を洗い、カップの置かれたテーブルの前に座った。
れみの入れてくれた紅茶に手を延ばす。甘いローズ・ティーの香り越しにれみの顔を見る。輝きを失った虚ろな瞳。青白い頬。少し乱れた髪。疲れきった表情。妖しいまでの輝きを放っていた美少女の面影はそこにはなかった。
今さらながらに、愛する人を見失うことの苦しみが分かる。それでも、昨夜のように取り乱した様子は見えなかった。私は、昨日言えなかった事をれみに話そうと口を開いた。
「れみ…。あなたに話しておきたい事があるの。あまりにもれみが取り乱していたから、昨夜は黙っていたんだけど、実は、昨日の夕方、男の人を見たの。冷たい雰囲気をもった不思議な人。ほんの一瞬だったし、あまりにも雰囲気が違っていたから最初は分からなかったけれど、後で考えてみたら、以前あなたに夢の中で見せてもらった彼と似ていたの。だから、イメージを拾って…確かめてみて欲しいの」
そう言いながら、れみの手に私の掌を重ねる。それから、記憶の引き出しから昨日の情景を取り出して、再現していく。こうすれば、れみは接触テレパスの能力で、彼のイメージを読み取れる筈だ。それによって、手掛かりが得られるかも知れない。
もしかしたら重要な手掛かりが…。
れみは、しばらくの間黙って手を重ねていた。が、突然、勢い良く手を引いた。青白い頬が小刻みに震えている。やがて、弱々しい一言がれみの口から零れ落ちた。
「直よ…今まで見た事のない冷たい表情だったけど、確かに直だわ…」
動揺を押さえ切れないれみの声。そして沈黙。その重さが、私にれみのショックの大きさを伝えていた。確かに彼は上田直だった。けれども、それから手掛かりを得ようとした私の思惑は外れた。
彼であることだけは分かった。しかし、それ以上の事は何も分からないばかりか、謎が一層深まっただけだという事に私は気づいた。
突然、彼が元気になったこと。姿を消した訳。そしてあの氷の表情の意味するもの。新たな疑問が次々と沸き上がり、混迷は更に混迷を深め、もつれていくのだ。
それにしても…。
れみは黙って肩を落としたまま微動だにしなかった。
彼女は、私以上に彼の氷の表情に戸惑っていた。いや、もしかすると、戸惑いという言葉を越えた衝撃が彼女を直撃したのかも知れない。しんしんと降り積もる不安が、ようやくのことで取り戻した彼女の落ち着きと気力に深刻な打撃を与えていた。
私はしばらくの間、声をかけ兼ねていた。けれども、彼女を不安の中に閉じ込めたままには出来ない。どんな状況であろうと、今はとにかく彼を捜すことが先決だった。そのためにも、れみの生気のない身体が問題だった。私は、ある決意をした。
「ねえ、れみ…。私も捜すのを手伝うけれど、その前に、しなければならないことがあるわ。それは、弱っているあなたの身体に、少しでも活力を取り戻すこと。…れみ、私から生命エネルギーを摂りなさい」
その言葉は、れみの心に激しい痛みと共に突き刺さった。
「…そんな、そんな事できないわ。そんなの嫌! 絶対にダメ…ダメだわ。分かっているの? 急激に吸い取られたり、大量に吸い取られたりしたら、命を失い兼ねないのよ…直のように…。それに、私は香織にそんな事したくない…」
れみは、激しく首を振った。私の言葉は、れみをひどく傷つけたのだ。
良く考えてみれば私にもれみの気持ちは理解できる。直との間に起きた事件への配慮が足りなかったのだ。けれども今は、それよりも優先しなければならない事がある。私は、敢えて強い言葉で、れみに言い重ねた。
「ええ、知ってるわ。分かって言っているもの。あなたはそれをテレパシーで教えてくれたし…ね。でもね、私は今のあなたの弱り方もあなた以上に知っているのよ。今のあなたではどんな男も振り向かない。とても外でナンパ…食事のできる状態じゃないのよ。それができる程度には回復してもらわないと、直を捜すどころか、この部屋で朽ち果てるか私を直と同じ目に合わせるかのどちらかになってしまう。そんなの私ごめんよ。だから言うの。今ならまだ、あなたの意志で制御できるはずでしょ。さあれみ、摂りなさい!」
私の言葉に、れみは天井を仰いだ。そして、そのまましばらく、微動だにしなかった。その間に、どんな思いがれみの心を駆け抜けたことだろう。
やがてれみは諦めてうなずいた。
「分かったわ…」
れみは、そっと私に口づけた。
一瞬の妖しい雰囲気、そして全身に広がっていく脱力感。そんな私とは裏腹に、れみの頬には赤みが戻り、背筋もピンと伸びた。そっと私から離れるれみ。そこには、いつもの妖しい美少女が立っていた。
「それで良いわ。後はまず、男を引っかけて『食事』。いい? 上田さんを捜すのはそれからよ。私だって、もう二度とこんなことはさせないからね」
「うん、分かってる。必ずそうするから。ありがとう、香織。香織のお陰で、少なくとも生きている事だけは分かったんだもの。少しは、落ち着いて捜せると思う。見つかったら電話する。…見つからなかったら、また泊めてね。どうしたら良いか、相談にのってほしいから。でも、そんな場合でも『食事』だけはしておくから」
「そうね、それが良いわ。その方が安心だし…。私も、午後から捜してみるわ。3時からの講義も休講だったし。だから、焦らないで、気をしっかりもって…ね」
れみは、何度もうなずいて部屋を出ていった。
私は、それを見届けてから、ベッドに倒れ込んだ。
身体の重さに現実感がなく、動きも鈍く沈んでいる。もちろん、れみに生命エネルギーを吸い取られたせいなのだが、思っていた以上に身体がだるかった。朦朧とした白い感覚の中、現実と夢とが交錯しながら、コーヒーに落としたミルクのようにクルクルと回る。私は、覚醒と眠りの境界を漂いながら目を閉じ、動けないでいた。
それにしても、なぜ、れみを助けようとするのだろう。それも命を懸けてまで…。
白い感覚の中でぼんやりと考える。確かにれみは好きだ。だけどそれは、おかしな意味でではない。別に、絶望したり、死にたがっている訳でもない。誰よりも自分が可愛いという部分がある事も否定しないし、その他、どうしてもれみを助けなければならない弱みがあるという訳でもない。それなのに…。
時として、こんな風に感じてしまう時間が私にはある。生きることへの現実感が乏しくなってしまうのだ。幻想の中を漂うような感覚。透明な生のひととき。意識してそうなった訳ではない。けれども、私は、確かにその中にいた。
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