『ぼちぼちいこか』を読む

ラックからのミニ評論7

 

『ぼちぼちいこか』〈マイク=セイラー/ロバート=グロスマン〉 を読む

 

 

大学時代の友人の1人から紹介され、今も手元にある1冊の絵本がある。マイク=セイラー作/ロバート=グロスマン絵の『ぼちぼちいこか』というわずか32ページの本である。

 

物語はいたって簡単で、主人公のカバくんが消防士や船乗り、パイロットやピアニストなど様々な職業にチャレンジするのだが、身体の大きさや重さ、微妙な力のコントロールが出来ない事などが原因ですべてに失敗し、一休みをしよう…という流れになっている。今江祥智の関西弁の訳とやわらかな色彩で描かれたカバくんの何ともいえないユーモラスな表情が絶妙で、何度読んでも楽しいし、また、読み終わった後、ほのぼのとした気分になれる本である。

 

その名訳の一部を紹介してみよう。原作本では、「NO」がだんだん大きくなっていくという話だが、「…なれるやろか」―「なれへんかったわ」・「…どうやろか」―「どうもこうもあらへん」・「…になるちからは」―「ありすぎやったな」・「…てをだしてみたら」―「てがでえへんやんか」といった具合に変化していく。それが、グロスマンの絵と訳とは思えないほどマッチして、何度読んでも、ページをめくる度に笑みが零れてしまう。

 

それでも、失敗を繰り返しながらも次々と新しい事にチャレンジするカバくんの姿は微笑ましいし、失敗続きでも落ち込まず、「ま、ぼちぼちいこか」とハンモックで一休みを決め込むカバくんにほんのりと温かいものを感じてしまうのはどうやら私1人ではないらしい。

 

大人が手にすれば「癒し系」という事になるだろうが、もちろんこの本を手にした子どもにも人気があるようで、甥や姪が小さい頃に買い与えたら、プレゼントした事を後悔する程、何度も何度も「読んで」と言って近寄って来たし、自分で字が読めるようになっても、時々、思い出したように手にしていたのを記憶している。

 

いずれにしろ、大人にとっても子どもにとっても「良い本」には違いないのだが、最近の日本の世相を見ていると、心のために「必要な本」となりつつあるのではないか……という思いにとらわれる事がある。不況が長引く中、多くの人が職を探し、特に若い世代は10人に1人くらいは失業している……というような話も耳にする。就職ばかりでなく学校や年金など未来を悲観しかねない情報が巷に溢れている。

 

学校や職場でも心のゆとりは失われ、時間や日々の仕事・勉強に追われて心は疲れ、荒れすさみ、穏やかな心でゆとりと優しさを持って周囲の人々に接する事の出来るような人は私の周囲でも少なくなっているように思われる。

 

そうした中で夢や希望を持つ事は難しいかも知れない。しかし、心にゆとりを持って自らを取り巻く現実を見つめ、その上で自分の能力で出来る事を地道に積み重ねていけば、少なくとも絶望せずに生きていく事は可能になる。

 

ある意味では、絶望する事は易しい。しかし、それでは前には進めない。遠過ぎる目標だけを意識せずに、自分や周囲の「現実」をきちんと受け入れながら、それでも今出来る事を積み重ねていくと、少しずつ前に進んでいくことが出来るのではないかと思われる。

 

苦しいのは自分だけではない。あるいは、状況も悪いかもしれないが、長期戦の覚悟を決めて、ゆっくりと進んでいけば、少しずつ道は開けてくる。「ぼちぼちいこか」という言葉を、苦しんでいる多くの人々に伝えたい。

                          〔完〕 

 

TEXT

 『ぼちぼちいこか』  マイク=セイラー 作 

 ロバート=グロスマン 絵   今江祥智 訳

     偕成社   1980

 

                  (20034)

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『金儲けがすべてでいいのか』を読む

ラックからのミニ評論6

 

『金儲けがすべてでいいのか』 〈チョムスキー〉 を読む

 

 

イラクにおける本格的な戦闘は4月下旬頃までにはほぼ終結し、サダム・フセインの独裁体制は崩壊した。しかし、誰もがそれで全てが終わったとは思っていない。返って、アメリカの暴走と世界の社会的・経済的混乱を危惧する人々が、アメリカも含めた世界中のあちこちに少なからず存在する。ノーム・チョムスキーもその中の1人である。

 

ブッシュを始めとするアメリカ政府の首脳たちは、「大量破壊兵器の廃棄」を口実に戦争を始め、「民主化」という口実にそれをすり替えて、アメリカ主導の「イラク復興」を進めようとしている。が、イラク及びアメリカ以外の国の少なからぬ人々は、それがイラクの石油資源をアメリカの一部石油企業の利権を拡大するための行動ではないかという疑いを持っている。

 

チョムスキーは、アメリカ人である。しかし彼は、アメリカ政府が一握りの巨大企業と投資家の利益のために動き、時として現地の人々が打ち立てた民主的な政府を転覆・崩壊・変質させて、「アメリカの利益」に沿って動く反動的・独裁的な指導者が政権を掌握するのを助けるような行動を何度となく取ってきていたことを実例を示して指摘する。「人権」や「民主化」を口にしても、それはあくまでも「アメリカの利益」に合致することが前提であり、その民主化がアメリカ系大企業の利益を制限する方向に進めば、軍事作戦を含むあらゆる手段を使って叩き潰そうとする。サダム・フセイン体制も、実は、そうしたアメリカの「支援」によって独裁体制を打ち立て、反対派を潰していたのだと言う。

 

昨今、日本でも声高に叫ばれている「グローバル化」もそうである。その内容を詳細に考察・検討してみると、「グローバル・スタンダード」とは、実は「アメリカン・スタンダード」に過ぎず、真の意味で世界レベルの視点を持てば、単なる英米的文化・発想に基づく経済システムの強制でしかない。しかも、それによって多くのアメリカの市民も賃金の抑制や破産の危機に苦しみ、特に弱者・マイノリティーの生活環境は悪化を続けているという。チョムスキーによれば、現在、世界を移動する資金の八割が投機資金であり、その急激な大量の移動が、残り2割の製造などの一般産業に大きな不安と打撃を与えていると言う。バクチ経済が生活に密着した生産経済を圧迫し、その豊かさを奪って、世界中の多くの人々の生活のみならず、その命までも危険にさらしているのである。

 

市場主義経済の万能性を説き「グローバル化」を進めようとしている政治家や官僚は日本にもたくさんいる。しかし、「神の見えざる手」と書いたアダム・スミスは、その当初から欲望の暴走による投機経済の危険性を指摘している。近代化の過程で「神」を殺した英米資本主義は、「神」という欲望の制御装置を失って、自らの短期的な利益のみを追及し、その結果として地球環境や社会環境を悪化させていく非効率性に目を向けようとしない。自然破壊、温暖化、貧困と飢餓、そしてテロ……。一度人為的に悪化させた環境を再建するには、より多くのコストと時間、そして努力が必要であり、そうした点も含めて現在の英米式「グローバル化」を検討すれば、その「効率性」は疑問であると言う他はないであろう。チョムスキーの告発は、そうしたことを考えさせてくれる。

 

しかし、そうした現実を変えていく処方箋はあるのか。チョムスキーは、国という枠組みを超えた民衆の運動と連帯に希望を持ち続けている。例えば、イラクでの戦争にしても、世界中で盛り上がった反戦運動はアメリカの暴挙を止める事が出来なかったかも知れない。しかし、アメリカの強力な情報戦略の展開にも関わらず、多くの国の人々はその行動が国際法的に見ても問題があると考え、正当性を認めていない。私達もその事実をしっかりと認識した上で、希望を失わずに、可能な努力を地道に続けていければ……と思う。

                            〔完〕

 

TEXT

 『金儲けがすべてでいいのか』 

 ノーム・チョムスキー 作   山崎淳 訳

      2002年      文藝春秋 

 

                  (200210)

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『モモ』を読む

ラックからのミニ評論5

 

  『モモ』〈エンデ〉を読む

 

 

鳥羽子どもの本の会・9月の例会で、久しぶりに『モモ』(エンデ/岩波書店)を読み直した。作者のミヒャエル・エンデは1995年に亡くなったが、彼の作品は今も世界中の多くの人々に愛されている。

 

映画化もされ、エンデ自身も少しだけその映画に出演しているこの作品の主人公モモには、不思議な力が備わっている。それは、他の人の話を聞くのがとても上手い事である。町の人々は、困っている仲間にこんな風に声をかける。「モモのところへ行ってごらん」と。 

 

子どもに過ぎないモモは、お金を持っている訳でも、アドバイスをしてくれる訳でもない。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけである。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりする。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのである。

 

さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみよう。自分に、何でも安心して話をする事が出来る家族や友達はいるだろうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が1人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人なのかも知れない。

 

別にアドバイスを受けなくても良い。と言うよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つ場合すらある。人間には「分かっていても出来ない」という事は、結構多いのである。そう考えると、途中で口を挟んだりせずに、きちんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重でやすやすとは得がたいものだということが分かるだろう。

 

ついでに、もう少し考えてみよう。私たちは、自分の大切な人の話をちゃんと聞く事が出来ているだろうか。ちょっと話を聞いただけで分かったつもりになって、愚かな「アドバイス」をしたり、相手の話を遮ってこちらの意見や都合を深く考えもせずに言ってしまつたりしている事が、けっこう多いのではないかと思う。

 

時には、自分の心に「耳をすまして」みよう。「忙しさ」などを口実にして、こちらの勝手や都合で周りの人に主張ばかりをしていないかどうか。そして、周りの大切な人の話に「耳をすまして」みよう。もしかしたらその人は「普通の状態」ではなく、大変な問題や悩みを抱えて苦しんでいるのかも知れない。

 

真剣に相手の話に耳を傾け始めると、思いもかけなかった事実や悩みや思いが噴き出す事がある。モモが灰色の男たちの企みに気付いたのは、彼等の1人から「話を聞いた」事がきっかけだった。モモもそうだったが、問題や悩みが大き過ぎる時には、聞くだけで何も出来ない事もある。しかし、逃げ出さずに、時間をかけて寄り添っていく中で道が開けてくる事は多い。

 

話を聞き、心を合わせて側にいてくれる。自分にはそんな人がいるのだと実感出来るだけで楽になる事がある。辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人の存在を信じられる事が、耐えきれないと思われるような辛さや苦しさを感じている人々に勇気や希望を与えてくれるのである。

 

そんな中で、辛さや悩みや苦しみを真正面から見つめ、それを越えて生きていこうと努力を続ければ、何よりも自分を信じる事が出来るし、またそういう人を愛し、大切に思っている周りの人達が、必ず救いの手を差し延べてくれるものである。そうした体験は、人間を強く、そして優しくし、いつか出会う誰かの辛さや寂しさや苦しみを和らげる力となるかも知れない。

 

このような姿勢が、自分や周囲の状況をより良い方向に変えていくための第一歩となり得る。いつもそう出来る訳ではないが、自分が辛く苦しい時でも、他の誰かのために何かをしてあげられるような強さを持ちたい…と思う。まあ、なかなかそれが出来ないから、そんな風に思うのだろうけれども。しかし、自分の心に「耳をすませ」、周りの人の言葉に「耳をすませ」て、今よりも少しだけ強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたい。

 

エンデの『モモ』を久しぶりに読み直しながら、こんな事を考えていた。モモのように、いつでも、自分をも含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」事が出来たら良いと思えないだろうか?。私はいつも、そう思っている。そして、そう出来る自分になりたいと願っている。

                          〔完〕

TEXT

 『モモ』 ミヒャエル・エンデ 作 大島かおり 訳

 1996年     岩波書店   エンデ全集3

 

                   (20024)

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『ピグマリオ』を読む

ラックからのミニ評論4

 

  『ピグマリオ』 〈和田慎二〉 を読む

 

 

幼児虐待、家庭内暴力、そしてドメスティク・バイオレンス……。家族や親と子の関係が不安定になり、時として破壊的な様相を示す現代社会。胸を痛める様々な事件は、自立に至るまでの苦難に負けてしまった人間たちの姿なのかも知れない。

 

自立とは何か。心理学の世界では、西洋的自我の確立の過程を英雄譚になぞらえながら以下のようなステップでまとめている。旅立ち、そして旅の途上で怪物と出会い、それを倒して美女を救出し、最後に彼女と結婚する。ここで怪物とはあらゆるものを飲み込もうとする悪しき意味での母性と重なる部分があり、その繋がりを断ち切る強さこそ自我の確立にとって重要となる。が、母性…あるいは女性原理を失ってはバランスが崩れるので、新たな出会い、すなわち結婚によってそれを補完するのである。

 

もっとも、このまとめ方はかなり大ざっぱで乱暴だが、ユングや河合隼雄の著作などを丁寧に読んでいくと、それなりに説得力を持っている。そうした事を意識しながら、この『ピグマリオ』という作品のストリーに目を向けてみよう。

 

主人公のクルトは、ルーンという小さな国の皇子だった。父王や周囲の人々に慈しみ育てられていたが、クルトには母親がいなかった。理由は注意深く隠されていた。が、悪神エルゾの娘メデューサによって石像に変えられてしまったのである。

 

その母ガラティアを元の姿に戻すには、母を石にした悪神エルゾの娘メデューサを倒さなければならない。石にされた人々と母のために、メデューサを求めてクルトは旅立つ。母ガラティアの妹である精霊オリエや大地の女神ユリアナに見守られながら。その旅の途上でクルトは、多くの人間や神々、そしてメデューサのしもべ・使徒の妖魔たちと出会う。そして、後にクルトの妃となるはずの星占いの少女オリエとも……。

 

次々と襲いかかるメデューサのしもべ・使徒を、女神ユリアナに借りた大地の剣で倒しながらメデューサ城を目指すクルト。だが、クルトは単にメデューサに近付くために妖魔たちと戦っているのではない。人々と語り、行動を共にしながら、妖魔や悪政に虐げられている人々の願いを背負って戦い、旅を続けるのである。

 

人々と語り、その苦痛や悲しみを背負い、共に生きようとするクルトの額に星が光る。それは、神々から時代を引き継ぎ、人々を導く『創世王ピグマリオ』の証である。共に苦しみ悲しみを背負いながら先へ進むクルトだからこそ、人々は心を動かされて共に生き、戦おうとする。そして、自らの時代の終わりを告げるクルトに、神々も力を貸そうと動きだす。そしてその力を結集してクルトはメデューサの前に立ち、クルトの剣は戦いの中でクルトを育てた闇の母メデューサの胸を貫くのである。

 

翻って、現代の日本の姿に目を向けてみよう。弱者に寄り添い、人々と苦難を共にしながら未来を切り開こうとする政治家や官僚の姿は無く、特権にしがみつき弱者を苦しめ未来を閉ざすようなことしか出来ない族と、国や国民の利益よりも外国と身内の利益を大事にして恥じない売国奴が日本を徘徊する。自ら血を流す勇気もなく、責任の取り方を知らない口先だけの指導者に、国難に対処する当事者能力はない。

 

困難は、それを乗り越えてこそ豊かな実りとなって当事者と周囲の人々に降り注ぐ。様々な妖魔との戦いを越えて、人々の心をつないでいくクルトの旅は、その物語に接する読者に深い感動と、生きる力と、困難に立ち向かう勇気とを与えてくれる。それは、本来、様々な神話が与えてくれたものであり、現在でも優れたファンタジーが私たちに示してくれるものである。

 

ファンタジー作品としての『ピグマリオ』。その中に内包されたイメージには、多くのかぎが隠されている。政治の問題、親子の関係、自立の課題、愛というもの……。いくつもの読み方ができるこのマンガを読みながら、そうしたことに思いを巡らし、未来に立ち向かっていくきっかけを探るのも良いかも知れない。

                            〔完〕

TEXT

 『ピグマリオ』 1~27    和田慎二

 19781990

   白泉社   花とゆめCOMICS

 

                   (200110)

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『模造された男』を読む

ラックからのミニ評論3

 

  「模造された男」 〈ウルトラセブン1999/第5部〉 を読む

 

 

防衛と侵略……。近現代の戦いの歴史をひもといた時、争う双方が「自国(あるいは自分達の集団)を守るためだ」と声高に叫ぶ。ニューヨークの貿易センタービルを破壊した同時多発テロとそれに対する反撃という形で行われたアメリカのアフガニスタン空爆及び地上部隊の侵攻。確かにテロは許すことのできない行為だが、「ジハード」を叫ぶイスラムの民衆の姿を目にした時、アメリカの政策の責任問題も浮上してくるように思われる。

 

そうしたことを考える時、意外にも様々な視点を与えてくれるのが、この〈ウルトラセブン19996部作〉である。その中でも、現代の戦争を考える上で特に印象深いのは、196710月から始まったTVシリーズ「ウルトラセブン」で唯一セブンの勝てなかったスーパー・ロボット/キング・ジョーの登場する第5部と言えるだろうか。

 

最初のTVシリーズからのファンとしては、CG技術も絡ませながら丁寧に作られているウルトラセブンVSキング・ジョーⅡの戦闘シーンの映像そのものが掛け値なしに楽しい。セブン最強の必殺光線ワイドショットを一瞬の分離合体で交わし、背後を取って圧倒的なパワーで迫るキング・ジョーⅡ。その強敵に対し、不退転の意志で対峙し、アイ・スラッガーの連続攻撃を胸部の回路にたたき込んで倒すが、その瞬間、さしもの無類の強度を誇るセブンのアイ・スラッガーも先端部が欠けてしまうというギリギリの勝利。数あるセブンの戦闘シーンの中でも屈指の映像である。

 

だが、戦いの原因は何か。地球防衛軍のカジ参謀が中心になって進める「防衛」のためのフレンドシップ計画。しかしその実体は地球侵略の可能性を持つ生命体を先制攻撃して殲滅してしまおうというものであり、その「防衛力」の切り札の1つとして軍事産業と結託して再生したキング・ジョーが人類のコントロールを離れて暴走した結果だった。

 

しかも、キング・ジョーの暴走の引き金は、実はカジ参謀によって引かれている。

 

その昔、伝説のムー大陸にあったとされる、人々の願い/口にした言葉を現実化する力を持ったラハカム・ストーン。1人の少女の願いによって模造された理想の「父親」がカジ参謀に迫る。「あなたの考えが地球上に侵略者を呼び寄せる」と。

 

そしてカジ参謀の言葉通り、平和・福祉目的にその電子頭脳をプログラムされようとしていたキング・ジョーⅡは「破壊することしか知らない宇宙最強の破壊ロボット」として暴走し始める。異星人、あるいは人類以外の未知の存在を全て「敵」と見なすことによって、「敵」ではなかったものまでもが「敵」になってしまうのである。

 

ウルトラセブンは、もちろん架空の物語である。しかし、その中で描かれているものの中に、現代の日本や世界の状況と重なって読みとけるものがある。

 

アフガニスタンへの空爆が続く中、アメリカを「敵」とは考えていなかったイスラムの人々の中にアメリカへの敵意が芽生え、広がっている。ブッシュ大統領の発した「十字軍」(キリスト教徒には「聖地奪還」と信じられているが、実体は、豊かであったイスラム世界への侵略と略奪だった)という不用意な言葉がイスラム教徒に不信感を与え、誤爆による民衆への被害の広がりがそれを助長しているのである。

 

テロは、本来、全ての国々の民衆の「敵」である。が、テロリストやそれを支援する人々に親近感を持つ民衆が少なからず存在しているのはなぜか。「グローバル・スタンダード」という言葉によってアメリカの一部の人々のみに都合のよい経済政策を押しつけ、貧富の差を一層拡大し、地球全体の環境破壊よりも自国の経済を優先しようとするわがままな超大国の姿勢がアメリカへの反発となってテロを呼び込んでいるのである。

 

それは、アメリカだけの問題ではない。目先の自国(それも民衆を離れた一部の人々)の利益ではなく、世界の人々全体の幸福のために先進国が協力すれば「敵」であった人々も「味方」に変わり、テロリストは孤立する。

 

それを考えれば、アメリカ主導の空爆を白紙委任にも等しい形で支援するよりも、もっと大切で、アメリカ追従ではない世界的な視野で見ても意味のある「国際貢献」のやり方が日本にはある。日本に求められるのはその吟味と実行なのではないだろうか。

 

この物語は、そんなことも考えさせてくれる作品である。

                             〔完〕

TEXT

 「模造された男」 〈ウルトラセブン1999/第5部〉

 VAP/円谷プロダクション  1999125日 発売

 VTR/ VPVT-64618 LD/ VPLT-70747

 *〈ウルトラセブン1999〉   1、「栄光と伝説」    2、「空飛ぶ大鉄塊」

                  3、「果実が熟す日」 4、「約束の果て」

                  6、「わたしは地球人」

 

                  (20014)

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『孤独』を読む

ラックからのミニ評論2

 

  『孤独』 〈スザンヌ・ヴェガ/セカンド・アルバム〉 を読む

 

 

ディスクが回り出すと同時に、スザンヌ・ヴェガの歌が流れ始める。ピアノもギターもパーカッションもなく、ただ彼女の声だけが流れていく。始まりから孤独の影が漂うが、それはアルバム全体を通じてイメージの重低音として響き続ける。

 

まだ1,000には届かないが、数百という枚数を遥かに越える数のレコードやCDアルバムの並ぶラック。1つの歌や曲として好きなものはたくさんあるが、アルバム全体として100%納得できるものはそう多くはない。

 

例えば、エンヤの『シェパード・ムーン』、TMネットワークの『CAROL』、アグネス・チャンの『美しい日々』、カーペンターズの『NOW & THEN』…。『孤独』は、そうしたアルバムと共に、五指に入るお気に入りのCDである。

 

慎重に押さえられた音に乗って、スザンヌの乾いたアルトが流れていく。それは、地味ではあるが、確かな存在感に満ちている。1つひとつの歌が、朝焼けの都会のビル街を吹き抜けていく風のようなイメージで心に響いてくるのである。

 

英語のネイティブ・スピーカーではないが、ただぼんやりと聞いているだけでも、カラカラと乾燥した都会の街角のイメージが広がる。それは音の作り方、歌い方によるところが大きいのだが、それぞれの歌詞にも都市生活のシーンが切り取られているので、意味を理解して聞いていると、よりそのイメージは深まってくる。

 

朝方の駅前の喫茶店のスナップ写真のような「トムズ・ダイナー」、今、日本でも問題になりつつある幼児虐待を扱った「ルカ」(ちなみにこの歌は浅香唯が1992年の『ステイ』というアルバムの中でカバーしている)、そしてアルバムの名前にもなった『孤独』など……。1つひとつがの歌がそれぞれに存在感を持ちつつも、全体として聞けばさらに豊かなハーモニーを奏でているのがわかってくる。

 

では、このアルバムが描くのはどんな街だろう。

 

日の当たるところでは、見知らぬたくさんの人々が行き交う。だが、その人々の間の繋がりはどこかしら淋しさが漂うほどに薄い。そこには、確かに自由はあるのだが、それは淋しさに耐えてこそ手に入れられるものなのかも知れない。

 

それでも人は生き続ける。大きな矛盾と隣り合わせに暮らし続ける。そんなシーンをスザンヌの感性が捕らえ、歌詞を、歌を紡ぎだす。メルヘンチックな幻想の入る余地のない生々しい現実の営み。だが、多くの人々がそこで働き、生活し、生き続けている。そのワン・シーンをスザンヌの視線が切り取る。それは写真のようにリアルだが、その視線の奥には押し込んでいてもにじみ出てくるような温かさがある。

 

どうしようもないような現実が確かに存在する。それを前にして孤立する一人ひとりの力は小さい。けれども、痛みを感じる自分がいる。同じように感じる人々も多分いるだろう。だから、希望はある。いや、希望を捨てない。アルバムを聞いていると、その歌の奥からそんな声が聞こえてくるような気がする。

 

もう、すでに10年以上も前に発表されたアルバムである。当時と比較して、社会の状況は大きく変わり、また彼女の音楽も変化していった。しかし、場所を隔て、時間を隔てても聞きたくなる音楽がある。あるいは聞かずにはいられなくなる音楽がある。少なくとも個人的にはこのアルバムは、そんな思いを抱いて聞いている。

 

毎日ではない。時には何か月も聞かないことだってある。けれども、何百枚ものCDの中から思い出したように手にするアルバムがある。何年たってもついついかけてしまうアルバムがある。日本名『孤独』/原題『SOLITUDE STANDING』。スザンヌ・ヴェガのセカンド・アルバムは、そんな1枚である。

                          〔完〕

 

TEXT

スザンヌ・ヴェガ  『孤独/SOLITUDE STANDING』

     A&M RECORDS  (1987年 リリース)

 

                   (200010)

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『水晶の涙』を読む

ラックからのミニ評論1

 

  『水晶の涙』 〈ジェイン・ヨーレン/村上博基 訳〉 を読む

 

 

ファンタジーではあるが、神話や英雄譚ではなく、人魚にまつわる小さな物語である。人生においても日常の生活においても、ほんの些細な事が実はとても大切であったという経験は少なくないが、雄大なストリーばかりがファンタジーではないことを再認識させてくれる逸品として、このあまり人に知られていないであろう作品をあげたい。

 

人魚が登場する物語としてこの作品と比較したいのは、アンデルセン童話の『人魚の姫』(新潮文庫 1968年による)である。アンデルセン童話の人魚姫は、魔法の力を借りて人間の姿になるのと引き換えに美しい声(を出す舌)を失う。

 

それに対して、この物語の人魚たちは最初から舌はない。人魚たちは泡と手話で会話をするのである。その際、舌は綺麗な泡(の言葉)を作る邪魔になる。この設定は、おもしろいと感じられる以上に、ある種科学的な説得力を持って、物語世界の人魚たちの種あるいは社会にリアルな存在感をあたえている。

 

また、アンデルセン童話の人魚姫は、人間の姿になってからも歩く度に痛みを味わう身体になる。が、昼間人間に姿を見られて人魚の社会を追放された人魚メルシーナは、最初は足の使い方が分からず、歩けない。幼児が歩行を覚えるように、あるいはリハビリの訓練のように、人魚の彼女を見た耳の不自由な少女ジェスと老いた船乗りキャプテン・Aの助けも借りながら、少しずつ足の使い方を覚えて歩けるようになっていくのである。

 

それから、人魚の少女メルシーナと人間の少女ジェスとの交流は、異文化交流の視点も持ちながら読み進めていくととても興味深い。

 

聾唖者でもある女優マーリー・マトリン主演の「愛は静けさの中に」という映画で健常者の夫と主人公がけんかをするシーンがある。同じ英語文化圏の中で生きていても聾唖者と健常者という違いが距離となって2人の間に横たわる。相手が好意を持つ理解者であっても、完全には理解しあえないからこそ、その努力を続ける姿が見ていて胸を打った。

 

一方、この物語における人魚の少女と2人の人間との間にはそれ以上の距離があった。水や衣服の感触、他のものとのつながり、あらゆるものが違っているからこそお互いの心を通わせるために、その生きてきた背景を理解する努力が必要だった。そしてそれは、今までの自分自身を振り返るきっかけとなり、この出会いを通して水の中で生まれた少女と陸で生まれた少女が成長していくことになる。

 

メルシーナは人魚たちに伝えられていた「3つの知恵」〔①忍耐せよ、海のように②周囲の生命のリズムに合わせてうごけ③すべてのものは他のすべてのものになれ、あらゆる生命は海とふれ合っていることを知れ〕の意味をより深く理解し、自分の犯した過ちに気付くと共に、この「3つの知恵」を陸に伝える役割を自分が持っていたのではないかと考え始める。そして最後には、仲良くなった陸の少女ジェスに自らの思いを込めた水晶の涙を残して海へと帰っていく。

 

また、ジェスは残された水晶の涙をイヤリングにしようというキャプテン・Aの言葉にうなずく強さを身に付ける。それは、他の人の目にも補聴器を付けた耳をさらす事であり、耳の不自由なありのままの自分を受け入れ、そして人々に向かって自分の心を開いていくことにもつながる事でもあった。

 

ストリーに関わっての細かい言及はこの程度にとどめておきたいと思うが、小さな物語の背景にちりばめられた小道具の細密な描写と設定が読む者の成熟度に合わせてイメージの翼をより大きく羽ばたかせ、生きる事に関わる様々な問題にアクセスさせてくれる。例えば「3つの知恵」などは仏教や道教などの東洋思想との関連なども感じさせる内容となっている。この小さなファンタジーは、そういう奥行きの深さを持つ作品である。

 

機会があればぜひ一読していただければと思う。

 

                           〔完〕

 

TEXT

ジェイン・ヨーレン  『水晶の涙』  (村上博基 訳)

 ハヤカワ文庫FT54  (1983年 7月  初版発行)

 

               (20004)

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夢への道標…オードリー・ヘプバーンの輝き

マドンナ・えっせい30

 

夢への道標

 

…オードリー・ヘプバーンの輝き

 

 

激動する時代の中で、あるいは長い時を隔ててもその輝きを失わないものがある。「モナ・リザ」、『ロミオとジュリエット』、『源氏物語』、ビートルズ……。私の意識の中では『ローマの休日』という映画もそうした存在の1つである。『ローマの休日』と聞けば、ほとんどの人があのアン王女の愛らしく清楚で気品のある笑顔をイメージするだろう。この「マドンナ・えっせい」の最後のページは、アン王女を演じたオードリー・ヘプバーンを鍵にして文章を綴っていきたい。

 

存在自体の輝き。TVや映画のスター、あるいは歌手を見てそれを感じる人は少なくない。しかし、最近の日本を見渡してみると、オードリーほど長く、またオードリーほど気品に満ちた存在感を感じられる歌手やスターはみられない。もちろん、一瞬、あるいは一定の時期に渡って輝く存在はみられても、その持続は難しいのである。

 

その理由の1つに、気品の欠如がある。お金や生まれではなく、背後に存在そのものの重みを感じさせる何か。それは、人生の闇を真摯に見つめながらも、欲望に流されず、そして希望を捨てずに生き続ける姿勢から滲み出して来るものではないだろうか。戦争の影、父親との別れ、結婚の光と闇……。オードリー・ヘプバーンの人生にも、様々な幸福と不幸がちりばめられていただろう。しかし、彼女はスクリーンではいつも輝き続けた。いや、彼女がこの世を去った今も、その作品は輝き続けているのである。

 

今、日本は不況の中に喘いでいる。中高年男性の自殺は急増し、その数は、交通事故死のそれを上回っているという。子どもたちは将来に対する夢を失い、空ろな心をモノとイメージの消費で埋めながらもがいている。世界恐慌の始まった1929年、ベルギーに生まれたオードリーは、当然、あの第二次世界大戦を体験している世代であり、戦争が彼女と父親を引き裂いていくのだが、その不幸と、今の日本の不幸とはどちらが深いだろうか。それを考えた時、オードリーのあの輝きには意味深いものを感じてしまう。

 

いくつか、オードリーの作品を挙げてみよう。『ローマの休日』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディー』……。それらを思い浮かべてみれば、多くの作品が「夢」であることが分かる。現実の生活はともかく、彼女は、多くのスタッフとともに真摯な姿勢で「夢」を作り続けた。そしてそれは、映画を見る多くの人々の夢や希望を紡ぎ、心を満たしていった。スクリーン上の彼女は、プロとして自らの内にある影を微塵も見せず、輝き続けた。彼女の気品は、そうした姿勢やそれを支えた彼女自身の芯の強さの中から生まれたのではないかと思われる。

 

翻って、私達自身を眺めてみよう。

 

人間は、ある意味では、1人ひとりが様々な不幸を背負っている。しかし、そうした現実を見つめ、立ち向かう強さも、人間は持ち得ている。その一方で、それを妨げる弱さもまた、人間は自身の心の内に持っている。例えば、身勝手な欲望や甘えがそれである。暴走する欲望や甘えは人との関係をぶち壊し、自分自身の生活を荒らし、どれほどモノで埋めても埋めることのできない空洞を心の内に作り出す。その空洞をモノや快楽でごまかそうとするからこそ、私達は、夢や希望を見失ってしまうのかも知れない。

 

構造改革と財政再建を旗印に小泉内閣が誕生して半年、僅かながら持っていた期待はすでに失望へと変わっている。強者が自らの利権を守ることに汲々とし、結果として弱者により多くの痛みを押しつけながら、その現実に目を向けず保身と責任回避に走るだけの政治姿勢に全く変化が見られないからだ。ゼロ金利政策や、労働者の首を切り中小企業をつぶすような「リストラ」を続けても経済の回復は見込めない。普通の人々が安心してお金を使える気持ちにならない限り消費は伸びず、景気は上向くことはないからである。

 

終身雇用と年功序列というセーフティ・ネットが崩壊する中で、国民の負担のみを増やし将来を不安にさせるような年金制度の改悪と不完全で利用しにくい介護保険の導入が進む。いずれも、未来のビジョンを失わせ、夢を奪ってしまう悪政である。

 

その根底には、自分自身の一握りの「身内」の利益のみを優先し、現実から目を逸らして身勝手な言動を続ける指導者たちの存在がある。もちろん、彼等を選んだ国民1人ひとりの責任もあるのだか。

 

こうした現実を打開するためには、「夢」の力が必要である。自分の欲望や甘えに流されずに、辛さや苦しみの現実を見つめ、その上に立って自分とより多くの人々の幸福のために何ができるのか。狭い視野で眺めていると見えないことが、広い視野で見つめ直すことで見えてくる。私のためでなく、私と家族のため……。家族や親戚のためではなく、町や国のため……。そして単に日本という国のためではなく、アジアやアフリカを含めた多くの人々のために……。そうした視点を持てば、身勝手な欲望から自由になり、埋めることのできない心の空洞も小さくなって「未来へのビジョン」=「夢」が見えてくる。

 

晩年、ユニセフの大使として活動したオードリー……。私達も、そんな「夢」を持てるような生き方をしていきたいものである。

                                    〔完〕

                      02年1月

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自立という幻想…キャリスタ・フロックハートの虚像

マドンナ・えっせい29

 

自立という幻想

 

…キャリスタ・フロックハートの虚像

 

 

キャリスタ・フロックハート。名前どころか存在すら知らなかったその女優を意識し始めたのは、「アリー MY LOVE」というアメリカ発のTVドラマの第2期の放映が終わる頃だった。

 

レンタル産業の隆盛は、見逃したドラマも少し時間をおきさえすれば簡単に目にすることができる状況を作っている。そんな現実に乗って早速シリーズのレンタルを始めたが、仕事が少し暇になったことも重なって、一気に2期分を見ることになった。早い話がハマッてしまったと言うことである。

 

その後、「ジェーンに夢中」の主演や「真夏の夜の夢」のヘレナ役を演じていることも知り、それらも続けて借りてみた。「アリー MY LOVE」における新米の女性弁護士アリー役が非常に魅力的だったので、そのイメージにひきずられないかと心配だったが、キャリスタは、それぞれをアリーとは別のイメージで演じていたので、その心配は杞憂に終わった。ただ、作品そのものについての評価は、やはり「アリー MY LOVE」が一番面白かったように思われる。

 

その「アリー MY LOVE」だが、20015月現在、日本では第3期のTV放映が終わり、レンタル・ビデオの店頭に第3期のシリーズがならび始めている