『歴史戦と思想戦』を読む

ラックからのミニ評論45
 
『歴史戦と思想戦』 《山崎雅弘》を読む
 
以前、中学校や高校で社会科を教えたことがある。それ以前から歴史は好きだったし、中学校の頃は堀越二郎の『零戦』を読んでエンジニアに憧れたこともあり、太平洋戦争関連の本はその頃からよく読んでいた。当時は、原子爆弾や東京大空襲など被害者としての日本国民の関連の記述が多く、また、母方の伯父が三人、戦争で亡くなっているので、これほど悲惨な戦争は絶対に起こしてはいけない、という気持ちが強かった。それでも、何冊も太平洋戦争関連の本を読んでいく中で、次第に、加害者としての日本の姿にも目が行くようになった。
 
例えば、東京大空襲や広島や長崎への原爆の投下はアメリカ軍による無差別爆撃だが、日本も実は、南京や重慶への無差別爆撃を行っていることが分かってきた。中学や高校の歴史の時間には授業では学習しなかった事実である。
 
メカとして現在でも私がこよなく愛するゼロ戦……零式艦上戦闘機は、実は当時の世界レベルの優秀な兵器であり、渡洋爆撃と称した南京や重慶への無差別爆撃の護衛が、ゼロ戦の初陣だったようだ。このこと一つを取ってみても、加害者としての日本の姿が見えてくる。
 
他にも、七三一部隊の細菌戦の準備と人体実験、南京大虐殺や従軍慰安婦、徴用工など、大日本帝国軍がアジアの民衆に対して害をなした事件はたくさんある。罪を犯せばその罪にきちんと向き合って謝罪し、可能な限り補償をしていくのがまともな大人の責任の取り方であり、それは国家において同様であろう。同じ敗戦国でありながら、ドイツが周辺国に信頼されるようになったのは、きちんと罪を認めて謝罪し、教育を通しても罪を忘れず二度と過ちを繰り返さないように教育においても外交姿勢においても侵略行為に向き合ったからであろう。ところが日本はどうか。愚かな現首相をはじめとする【歴史修正主義者】たちが、そうした侵略の罪から目を背け、「自虐史観」などとののしって大日本帝国の犯した侵略の罪を矮小化しようとする。近隣諸国とのもめごとの少なくない部分に、間違いを認められない幼児レベルの自称「保守」政治家たちの愚かな言動が絡んでいる。個人レベルにおいても、犯罪者が罪を隠ぺい、あるいは矮小化する態度は、被害者や第三者の心を逆なでして怒りを招く。考えの足りない自称「右翼」たちは、その幼児性と愚かさによって母国の信用を損ない続けているのである。
 
産経新聞の連載から耳目を集めるようになった「歴史戦」という言葉は、こうした歴史修正主義者たちの主張は、実は、戦前・戦中の「思想戦」と内容的にほとんど違いはなく、いわゆる、戦時中に失敗した情報戦のプロパガンダの一つにほぼ等しい。わずかな証言の間違いや相違、偽記事を根拠にすべてをなかったものにしようとするのは論理的に破たんしているし、その言動そのものが他者や他国民の信頼を失われるばかりでなく、失敗したプロパガンダ作戦を一世紀近くの時間を置いて成功させようなど、軍略的にも間違っている。歴史に学ばない(あるいは学ぶ能力のない)愚かさを自らの言動で国内外に広めているのに、それに気付かないとは二重三重に愚かであろう。
 
それでも、国内をマスコミ上層部を押さえ、力を持った偽右翼売国奴地が、歴史の背を向けて再び間違った亡国の道に国民を追い立てようとしている。我々は、それを見破り、国を守る方向に軌道修正をしなければならない。この本を読みながら、それを強く感じた。
                           〔完〕

 

 【TEXT】
  『歴史戦と思想戦』
     作 山崎雅弘
   二〇一九年    集英社新書

 

ISBN … 978-4-08-721078-1

 

 

 

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現代シネシネ団

現代シネシネ団

子どもの頃
愛の戦士レインボーマンという
TVドラマがあった
日本人絶滅を企む
死ね死ね団という秘密結社が
レインボーマンの敵だった
 
死ね死ね団が糸を引く
御多福会という新興宗教は
拝金主義の教義を持って
大量の精巧な偽札を作り
日本中にばらまいた
 
時代は昭和から平成
そして令和へと移ったが
死ね死ね団のような連中が
日本の中で跋扈する
金だけ今だけ自分だけ
国民の人権や生活の安定安全よりも
自分とオトモダチの利権の方が
ずっとずっと大切だ
 
原発事故も何のその
安全基準を甘くして
白血病や甲状腺癌のデータは
表に出さずにひた隠す
汚染土処理は目途が立たず
日本各地にばらまいて
人々の未来をすりつぶす
 
偽装とごまかしで維持した
生活実感のないアホノミクス
株価の偽装の目的で
年金資金で博打して
失敗すれば増税と
報告書の受け取りを拒否
 
基地問題は努力せず
地位協定は変えられず
負担はひたすら沖縄に
アメリカ産の兵器なら欠陥機でも
ハワイのためのミサイルも
税金使って大量購入
専守防衛の枠組み外し
自衛隊まで売り渡す
 
少子高齢化を叫んでも
保育所は足らず教育費も増やし
給与は減らし税負担を増やして
子育て世代を圧迫し続け
子どもを産む環境を
徹底的に破壊した
 
さすがは悪の秘密結社
元祖死ね死ね団も顔負けだ
日本の滅亡の日も近い
恐るべき現代のシネシネ団

 

 

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伝えることと対話

 

伝えることと対話

 

 

 

発言をすれば

 

相手に伝わると

 

勘違いしている者がいる

 

だが人の世は

 

そんなに甘くない

 

 

 

誤解に曲解に無理解

 

そしてまったくの無視

 

聞く側の姿勢や気持ちで

 

内容がほとんど伝わらない

 

実は

 

そんなことも多い

 

 

 

だからこそ

 

人々は対話する

 

相手の人格や感情

 

人間としての有様を尊重し

 

真摯に耳を傾け合い

 

言葉をやり取りするのだ

 

 

 

それを通して

 

誤解は理解に変わり

 

内容は深まり

 

共により良き未来を目指す

 

豊かな関係が生まれる

 

 

 

それは

 

命令や一方的伝達からは

 

決して生じないもので

 

多様さと豊潤さを併せ持つ

 

美しい人間社会への萌芽となる

 

 

 

あなたは

 

ちゃんと伝えているだろうか

 

そして

 

相手の存在を尊重しながら

 

きちんと耳を傾けているだろうか

 

 

 

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冬の光


   冬の光
 
凍り付く夜の道を
ボクはひとり歩いている
冷たい風が肌を刺し
孤独に慣れてしまった心を
いっそう冷え込ませる
 
暖房の効いた部屋にいても
機械のぬくもりでは温められない
誰かが言ってたウイスキーのお湯割りも
似合わないアルコールが冷めてしまえば
かりそめの温かさはどこかに去って
淋しい心を包囲する
 
小さなすれ違いが
些細な喧嘩になって
お互いに仲直りし損ねているうちに
気まずい時間が積み重なって
とうとうキミは出て行った
 
一人の部屋の寒さに
こうして外に出てみても
歩き回るくらいでは
どうしても温まらない
ふと空を見上げると
Wの崩れた形をした
カシオペア座が見えた
 
そう
このまま終わりにして
良いわけでは決してない
心の寒さがそれを告げている
こんなことじゃいけないと
 
メッセージを送ろうと
スマホを出した時
 
チロン
 
ゴメンナサイ
アシタカエリマス
 
不意に心が温かくなった
そろそろ家に帰ろう
キミを待つ準備をしなくては

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『君の膵臓をたべたい』を読む

ラックからのミニ評論44

『君の膵臓をたべたい』 《住野よる》を読む

最初はこの題名のためにあまり読む気にはならず、映画化やアニメ化があってもあえて接触はしていなかった。けれども、たまたま時間が空いたタイミングでレンタル店をのぞいた時にたまたまこの本のコミック版を読み、とりあえず小説も読みたくなって行きつけの本屋にあった文庫本を買った。読んでみて少し違和感があったので、市立図書館で単行本を借りて読み比べてみたら、記述が異なっている箇所があった。コミック版は単行本版をもとに描かれたようだ。結局、文庫版と単行本版の両方を短期間で二度読んだことになる。コミック版では少し不満だった細かい心理描写を堪能できた。
山内桜良は皆に愛されるクラスの人気者だったが、親友にも黙っている秘密があった。それは、膵臓の病で余命が残り少ないということ。【僕】はたまたま病院の待合室に忘れた「共病文庫」を手に取ったことでその秘密を知ってしまう。「共病文庫」は桜良が病や死と向き合うために病と余命を宣告された頃に書き始められた日記のようなものだった。
ユング心理学風に言えば、桜良は周囲の人の視線を気にし、それによって自分を規定する外向的性格、そして自分一人で自己完結し友達がいなくても困らない【僕】は内向的性格と言って良いだろう。そのため、【僕】のことが会話に出てくるときの表記は発言する人間がどう思っているかを予測した内容になっている。だから、【秘密を知っているクラスメイト】や【仲のいいクラスメイト】、【ひどいクラスメイト】、【仲良し】、【???】などと色々変化する。もちろん、クラスメイト達は【僕】のことを姓で読んでいるだけなのだが……。【僕】の氏名/志賀春樹というフルネームは、「共病文庫」を渡す桜良との約束を彼女の母親が果たし終えた後で名前を聞いた時初めて登場する形になっている。
外向的な桜良は、友達は多くて周りから愛されている明るいキャラだが、それゆえに一人で死と向き合うのは重過ぎたのだろう。だからこそ【僕】の存在を必要としたし、【僕】もまた自己完結だけでは前に進めないからこそ桜良の存在が必要だったのだろう。そして、秘密を共有するという形で二人はきちんと出会い直す。お互いに、自分たちが「正反対だから」と認識し合っていたのだ。ただ、最初のアクションを起こしたのは桜良だった。そして「君のしたいことをすればいい」という【僕】の発言を逆手に取られ桜良に振り回されつつも二人の時間を重ねていく。それは、自分の生と向き合い、かけがえのない他者と向き合っていくための大切な時間だった。図書館、焼き肉屋、大宰府への秘密の旅行そして桜良の入院……。余命が短くなったことを告げられた桜良はどうしてもそれを話せなかったが、二人の濃厚な時間積み重ねられていった。
それを奪ったのは通り魔だった。退院の日の午後、待ち合わせの場所に向かう途中で桜良は命を落とす。【僕】は葬儀にも参列せずにひきこもるが、投下間のひきこもりを経て彼女の家に向かう。「共病文庫」を読むために。そして、「君の膵臓をたべたい」という言葉がお互いに向かって発せられ、受け止められたことを知る。【僕】のそれからの周りに心を開いていく過程は述べられていないが、桜良の墓前での敵視されていた彼女の親友恭子とのやり取りの生き生きとした軽やかさは一年間の苦闘とそれを越えてきた成長を感じさせ、悲しみを受け入れてきた者の豊かさと力強さを感じさせる。ヒロインの死には不満が残るが、実写やアニメ映画化され支持されていることに納得できる青春小説である。
 〔完〕

 【TEXT】
  『君の膵臓をたべたい』
     作 住野よる
   二〇一五年    双葉社

ISBN978-4-575-23905-8

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『恋は雨上がりのように』 1~10を読む

ラックからのミニ評論43

恋は雨上がりのように 《眉月じゅん》を読む

 

この『恋は雨上がりのように』という作品は一時期平積みされていたこともあり、存在自体は以前から知っていた。けれども、ただでさえ毎月たくさん本やマンガを買うので、まとまった冊数が出ていたこともあり、敢えて新しいシリーズに手を出す気は起きなかったので傍観する日々が続いていた。ところがある日、市内のレンタルビデオ屋でアニメとマンガが目に留まり、お試しのつもりで借りてみたところ、一気にはまってしまった。
 
このアニメのオープニング風に言えば、①ヒロインが元陸上部。②相手のファミレス店長が元文学青年。この二つで一気に親近感を持ってしまった。陸上部と言っても私の場合は才能のない長距離ランナーで中学校の試合に出たのは一度だけ。大した結果も出せなかった。が、ヒロインの橘あきらは自他とも認める有望な短距離の選手で新人戦の記録保持者だった。それが高校一年の冬、練習中にアキレス腱断裂の怪我をして陸上から遠ざかっている。このあきらが熱烈に恋しているのがバイト先のファミレス店長である近藤正己。バツイチのさえない中年男である。
 
出会いは、近藤が店長をしていたファミレス。雨宿りをしていたあきらに近藤がサービスでコーヒーを持っていき簡単な手品を披露する。あきらはちょうどアキレス腱断裂の故障で夢を見失っていた時期だった。有望な選手ではなかったら気軽にケガから復帰できたかもしれない。けれどもあきらは陸上部機体の星であり、のちには県の新記録を作るほどの短距離の選手だった。当然、周囲の期待も自分自身の理想も高かったからこそ、復帰後の故障の再発や以前のようなレベルでの活躍への不安や恐怖があり、夢を見失って傷ついていたのだった。こんな時には、関わりの薄い人のさりげない親切が身に染みる。そしてあきらは恋に落ちた。 

近藤店長のファミレスでアルバイトを始めるあきら。まっすぐなアプローチは、最初は近藤をドギマギさせるが、やがて近藤が見失いかけていたものを取り戻すエネルギーを与えてくれる。そう、近藤は若い頃から文学に情熱を傾けていたのだ。離婚も、文学を捨てられなかったからだという思いが近藤にはあるが、あきらは「文学を捨てなかった勇気」という言葉を口にする。私自身もバツイチだし、近藤のように時として「文学を捨てる勇気がなかった」と思うことがあるが、相手がどんな年齢であっても異性にあきらのような言葉を聞かされたらその言葉と存在を胸に深く刻み込まれるだろう。
 
そんな言葉を交わした大雪の元旦、近藤の言葉はそっとあきらの背中を押し、「走りたい…!」という言葉を絞り出させる。この辺りの流れは「八月のクリスマス」という映画を思い起こさせた。年齢のはなれた若い娘にいつしか心惹かれ、向こうも好きになってくれる。にも拘わらず若い子の夢のために静かに身を引く。「八月のクリスマス」では写真屋のオーナー店長は不治の病に侵された身であったところは違っているが、そっと距離を取り背中を押すところは似ている。もちろん、近藤は死ぬわけではなく、繰り返される日常の中で見失いかけていた文学への情熱を取り戻し、強い意志とエネルギーを持って再び文学と対峙し始める。
 
陸上に復帰したあきらは一年後の夏の競技会決勝で自己ベストを出して県の新記録をたたき出す。ファミレス店長としての近藤の日常には変化はないが、文学への情熱に揺るぎはない。読み終えた後、小説を書きたくなった作品である。
 
               〔完〕

 

 

 

 【TEXT】

 

  『恋は雨上がりのように』1~10

 

     作 眉月じゅん

 

   二〇一五~一八年    小学館

 

 

 

ISBN978-4-09-186728-5  ISBN978-4-09-186868-8

 

ISBN978-4-09-187200-5  ISBN978-4-09-187417-7

 

ISBN978-4-09-187629-4  ISBN978-4-09-187798-7

 

ISBN978-4-09-189389-5  ISBN978-4-09-189546-2

 

ISBN978-4-09-189656-8  ISBN978-4-09-943013-9

 

 

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大晦日参り

大晦日参り

 

初詣ではなく

地元では大晦日に

八雲神社にお参りをする

 

毎年

夕食を食べ風呂に入ってから

父と二人で神社に向かう

今年もそうだ

 

数日前から寒気が入り

ぐっと冷え込んだので

退院から数週間の父は

今年は風呂には入ってない

 

隣の小学校は閉鎖され

駐車場に開放されていて

すでに車が何台か停まっている

以前は歩いていたが

父が後期高齢者になってから

ずっと車で参拝している

 

境内では火が焚かれ

地元民が古いしめ縄をくべている

去年はみっちゃんがいたのに

不意に父がつぶやく

一月に急死した義兄は

去年まで世話役をしていた

 

いろいろとしんどかった一年が

静かに暮れていく

冷たい空気の中車へ歩く

運動場の東の空に

オリオン座が輝いている

 

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ホウ ホウ ホウ

ホウ ホウ ホウ

 

庭先枝にとまった

フクロウの爺さん

ぼんやりとテレビを眺め

星の夜に鳴く

 

ホウ ホウ ホウ

人間なんて不便なものよ

法治国家の名のもとに

法を無視する総理がいても

与党は尾を振り

マスコミはダンマリ

憲法も何もありゃしない

 

ホウ ホウ ホウ

鳥には法は関係ないから

思いに自然に生きるだけ

無法な奴に爪を立て

力任せに引き裂いて

それでも罪には問われない

法も罪も意味はなく

日々の暮らしが過ぎていく

 

ホウ ホウ ホウ

それでもこいつはやりすぎか

自分の都合で法改悪

国会論戦答えずに

外交という名目で

さっさと国外に逃亡し

強行採決しかできない

 

ホウ ホウ ホウ

息をするように嘘をつき

言葉に責任持ちません

身内や共は大切に

国民なんてどうでもいい

日本を他国に売り渡し

右翼を気取って靖国参拝

そして他国に責められる

 

ホウ ホウ ホウ

かわいそうだな国民庶民

こいつがトップじゃ浮かばれない

儂はフクロウで良かったな

 

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霜月の足音


   霜月の足音

 

いつものように夕食を終えてから

久し振りに温かさが恋しくなり

抹茶オーレをゆっくりと味わう

日が落ちて冷たくなった外気に

少し肌寒さを感じた身体が

ほっこりと緩んでいく

 

ほんの数日前までは

自室では冷たい飲み物だったが

深夜の外回りと朝方の寒さが

日一日と気になり始め

仮眠に毛布を出したのが昨夜

警備で回る夜の職場では

こたつを出したという声も

チラホラと聞こえ始める

 

猛暑と大雨そして台風の上陸

過酷な夏と秋が過ぎて

暦はもう神無月の終わり

日めくりを破れば

霜月が顔を出す

寒さを含んだ空気の中

冬の足音が近づいてくる

 

 

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『「子どもの発達障害」に薬はいらない』 を読む

ラックからのミニ評論42

 

「子どもの発達障害」に薬はいらない 《井原裕》を読む

 

 
長年、不登校ひきこもりの家族会と関わっていることもあり、発達障がいに関してはいろいろ勉強を重ねているので、個別やグループでの相談のみならず、講演やレクチャーを依頼されたこともある。研究会では現職の学校の先生方にアドバイス等を普通にできる程度の知識は持っているとの自負があるのだ。だから、行きつけの書店でこの本を見つけた時、まず「大丈夫かな? トンデモ本の類ではないだろうな」という思いが頭に浮かんだ。臨床心理学的に言えば、本人の状況に応じた適切な薬物の使用によって症状が安定し、学習や日常生活を送る上で、本人にとっても周囲の人々や家族にとってもプラスになるケースもあるので、薬物療法を全面的に否定しようという内容であれば、眉唾の読み方をしなければならないなあ、と思ったからである。だが、読みだしてからその危惧は消えた。その種のトンデモ本ではなかったからである。


精神医療の現場において薬物の全面否定は治療の選択肢を狭める愚行ではあるが、その一方で安易な薬物の使用は、依存や副作用という別の問題が生じる。私のカウンセリングの経験においても、クライアントの症状が飲んでいる薬物の副作用の可能性があるケースがあり、薬の量について症状をきちんと伝えた上でかかっている精神科医に薬の種類や量について相談してはどうか? という話をしたことがあった。大人でもそうなのだから子どもの場合はもっと難しい。精神系の薬物の場合、なぜ効果があるのか現時点で説明は難しいが、とりあえず効果が認められる薬物がある。だから、入院をして薬物のその子にとっての適量を調べてから正式に処方することもある。薬によって多動が治まり、学習や日常生活が安定する場合はいいが、薬が効きすぎて静かにはなっても一日中頭がぼうっとしていてあらゆる活動に消極的になってしまうような場合は明らかに問題だろう。また、発達途上の年齢の子どもたちに適正ではない大量の薬物を入れることがその後の精神発達に悪影響を及ぼすのではないかとの危惧もある。この本は、後者のようなケースに陥らないように薬は最小限に抑えた上で、その他のやり方も併用しながら症状に対処していこうとする立場で書かれた本だったのである。


では、その他のやり方とは何か。実際に大学病院において過度に薬に頼らない診療を続ける著者が着目したもの。それは、睡眠への着目と生活習慣の見直しである。様々な刺激に満ちた現代日本において、一般の子どもたち以上に刺激を直接受け取りやすい傾向のある発達障がいの子どもたちは、自分の限界を超える刺激に精神が興奮して睡眠が乱れ生活習慣がおかしくなっていくことは多い。ならば、睡眠と生活習慣に着目してそれを立て直せばよい、ということになる。生活習慣の立て直しという視点は、発達障がいの子どもに限らず大人でも有効に作用する、ということは、私自身がカウンセリングをしてきた経験からも非常に納得できるはなしである。実際、生活習慣が安定してくるとクライアント本人の症状も改善に向かってきたという経験は何度もある。ただ、私自身は今まで、眠りと生活習慣の安定の関わりについてそれほど意識はしていなかった。けれども、この本を読んでいて「なるほど」と納得できた。


その他にも、状況を改善していく具体的な手立てが、現場の経験を踏まえてわかりやすく説明されている。題名を見てちょっと身構えたが、読んでみるとなかなか興味深い内容の書かれたわかりやすく納得できる本だった。センセーショナルな題の付け方は販売のための戦略だったのかもしれないが、いい本に出合えたと思っている。

        〔完〕

 

 【TEXT】

『「子どもの発達障害」に薬はいらない』

     作 井原裕

  二〇一八年    青春新書

 

ISBN978-4-413-04542-1

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